宇津権右衛門家が領主の一橋家から期待された機能の一つは、豊かな資金力と広い地域にわたる交流に支えられた金融活動である。たとえば嘉永三年(一八五〇)四月代官小山泰蔵は、寛政八年(一七九六)から始められた一橋領の貸付金の制度が年数を経て多額の貸し滞りが生じたので、その整理方針を取り決めた。この貸付金は上高根沢村の宇津権右衛門が取扱いを任されていたものである(史料編Ⅱ・七九七頁)。この整理方針に基づいて、一橋領の貸付金に関連して、慶応元年(一八六五)十二月宇津家(広右衛門)は芳賀・塩谷両郡村々からの返納金を預かっている(史料編Ⅱ・八〇六頁)。
宇津権右衛門家が凶作等による困窮農民の救済に熱心だったのは、自村および周辺村々の困窮の激化が、同家の経営活動に打撃を与えるからでもあった。文久三年(一八六三)八月、上高根沢村名主宇津権右衛門は、酒造米高三百石、冥加永四貫五百文の条件で酒造の開始を願い出て許可されている。なおこの酒造株は、宇都宮藩領塩谷郡上塩原村の徳左衛門から買い取ったものである(史料編Ⅱ・八〇三頁)。一橋家としては、宇津家が経営の多角化をはかって資金力を強化することは、一橋領の支配に有用で、酒造冥加永の確保とあいまって、歓迎すべきことであった。なお宇津家は毎年家伝薬の救命丸を一橋家へ献上している。
[関連史資料] 野州上高根沢村西根郷宇津権右衛門屋敷之図 (目録)
9図 昔を偲ばせる宇津権右衛門家の塀と堀