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一橋家領の兵賦徴発

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 元治元年(一八六四)当時、一橋家の当主徳川慶喜は京都にいて、禁裏守衛総督の役についていた。実際は幕府を代表して、公家や京都滞在の有力大名との政治折衝にあけくれていた。徳川慶喜自身はその過程で、自分の政治的立場を強化するため、直属の軍事力の拡大の必要を痛感していた。一橋家には本来軍事力となるような家臣はほとんどいなかった。武州農村の出身で、のちに経済界で活躍し、日本資本主義の父ともいわれる渋沢栄一は、この頃いとこの渋沢喜作とともに、一橋家の下級家臣になっていた。渋沢栄一は重臣の平岡円四郎に、軍事力増強のために、自分たちが江戸と関東に出かけ、能力があり、かつ一橋家へ仕官する意志のある者を百人ほど募集してくることを提案した。平岡がこの提案に同意したので、渋沢栄一・喜作の両人は、五月に京都から江戸に出かけた。しかし、おりから水戸藩の尊攘派が筑波山で挙兵し、渋沢らがあてにしていた剣道家や漢学生らの多くは筑波山挙兵に参加しており、かろうじて十人ほどの有志を誘うことができた。渋沢らはこれより先、関東の一橋領を巡回して、農民のなかから志願者をつのり、四十名ほどの有志を集めることができた。
 渋沢らが武州・総州・野州の一橋領を巡回したのは、元治元年六月から八月にかけてである。当時野州上高根沢の陣屋に勤務していた横井鐐之助の日記につぎの記事がみられる。七月七日に歩兵組み立ての人選のため、渋沢成一郎(喜作)・渋沢篤太夫(栄一)が当陣屋に到着した。七月九日には、「西根組一人、迎戸組一人、高田組一人、桑窪組二人、板戸村組二人、道場宿組一人、右の外村方には人当てこれ無きの旨申し立て、渋沢両人の見分を請け候事」とある。一橋野州領で八人の候補者をつかんだというのである。西根・迎戸は上高根沢村で、他の地名も高根沢町域か隣接地域のものである。七月十二日にはこの八人を四人にしぼり、八月二日に下高根沢村の半六、坂戸村の清吉、桑窪村の清太郎らが江戸へ向かった。
 ところで、鹿沼宿本陣にいた鈴木鍵益という医師が、江戸に戻った渋沢の家にきて、一橋家の歩兵組み立ての要員に志願してきた。八月七日江戸屋敷より同人の身元を上高根沢村の宇津権右衛門に引き受けてもらいたい旨の要請がきた。そこで陣屋で鈴木鍵益のことを調べたところ、同人は水戸の出身で、宇津権右衛門とも旧知の仲であることが判明した。同時に同人は水戸藩尊攘派が大平山に結集した時にこれに参加したが、後に尊攘派から破門されたことがわかり、陣屋では同人を採用しないよう江戸屋敷に伝えることになった(『渋沢栄一伝記資料』第一巻、竜門社、一九五五年、三〇七頁)。
 関東・越後の一橋領で兵賦の徴発が本格化したのは慶応二年(一八六六)からであった。たとえば二月には、武州・総州・野州および越後の名主合わせて十六名が京都に動員され、京都の政治状況を観察するよう命じられている。これは先年(元治元年)に京都に動員された歩兵は短期間で返されたが、現在は鉄砲組の拡充に迫られており、上方および備中の一橋領より一千人の歩兵が動員されている。関東・越後の一橋領からも四百人程度の動員が求められ、その準備として名主の一部が動員されたことがわかる。名主の名簿の中に上高根沢村の(阿久津)半之助と道場宿村の長太夫の名がみられ、また名主らを世話した一橋家京都の軍制所の役人として渋沢成一郎の名がみられる。ついで関東・越後の一橋領には、百五十人の兵賦徴発と百五十人分の代金納が課せられ、村々ではその対応に苦しむことになった(『蓮田市史』近世資料編Ⅱ、第三章、一九九七年)。ただ高根沢町域では、幕末の兵賦徴発に関する史料が見当らず、残念なからその実情はわからない。

10図 慶応3年フランスでの渋沢栄一(『渋沢栄一伝記資料』別巻第十写真より)