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幕末期の増税政策

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 幕末期に一橋野州領では、新規見取り田畑に対して新たに年貢を賦課している。見取り田畑とは、新たに開発された田畑を領主の役人が点検し、低い年貢を課することにした土地のことである。上高根沢村では元治元年(一八六四)に、田一町五反一畝と畑五畝余が、村から上納を申し出た形で年貢を賦課された(史料編Ⅱ・八〇四頁)。また慶応三年(一八六七)に上高根沢村の百姓持ち林の一部三反が見取畑として、秣場の一部七畝が見取田として、新たに年貢を賦課された(史料編Ⅱ・八〇七頁)。
 一方荒廃田畑の起し返し(復興)は順調ではなく、慶応三年三月に一橋総州・野州領村々の手余り荒地の年貢減免を慶応二年より十か年継続することを取り決めた。慶応二年の段階で村高四千九百五十二石三升九合のうち、荒畑は二百五十四石二斗四升六合と五パーセントにおよんでいたことが明らかである(史料編Ⅱ・八〇九頁)。
 慶応二年(一八六六)には、一橋武州・総州・野州領村々の品々新規冥加永の取立てがきめられた。これは幕末における商品生産や商業活動の発展に応じて、村々から新たに冥加永を上納して生産・流通活動をすすめたいとの申し出があった。冥加を負担する業種として、質屋・穀屋・油屋・醤油屋・紺屋・塩仲買・藍玉・材木・干鰯・炭焼・馬喰があげられている。冥加の金額は、村々からの申し出は永三十四貫弱であったが、領主側が検討して永八貫ほど増加させて、永四十二貫(金四十二両)余りになっている。また期限は慶応元年より五か年間にとりきめられた(史料編Ⅱ・八〇六頁)。
 以上の年貢の増減や新たな冥加の賦課は、一橋関東領の新たな情勢に柔軟に対応して、領主財政の維持をはかろうとしたものである。しかし、これらの対策の実施期間中に一橋領自体が終局をむかえることになった。