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一橋下野領支配の終局

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 慶応二年(一八六六)七月将軍徳川家茂が大坂城で没した。幕府はおりから長州再征中で、幕府の首脳は一橋家当主の徳川慶喜に宗家相続と将軍就任を要請した。京都で禁裏守衛総督を勤めていた徳川慶喜は、宗家相続は承知したが将軍就任はこばみ、自ら長州にむけ出陣する体勢をとった。しかし、翌八月北九州の小倉口で幕府軍が長州軍に敗退したことが伝えられると、徳川慶喜はにわかに長州にむけての出陣を中止した。以後幕府は家茂の死を公表するとともに、長州征討を中止することになる。将軍も一橋家当主も空席のまま、一橋家の家臣は順次江戸へ引き揚げることになり、一橋家の軍隊は幕府陸軍奉行などの支配下に組み込まれることになった。徳川慶喜は十一月にようやく十五代将軍に就任し、慶喜直属の家臣の多くは幕臣になった。
 前尾張藩主の徳川茂栄が一橋家を十二月に相続し、十代当主となった。徳川茂栄ははじめ茂徳と称し、尾張徳川家の分家である美濃高須松平家の当主から尾張徳川家を相続しており、徳川慶喜より六歳年長だった。茂栄の曾祖父は第六代水戸藩主徳川治保で、慶喜とは又従兄弟の間柄になる。長州征討の失敗により幕府の権威は失墜し、徳川慶喜の必死の努力にもかかわらず、政治的主導権は薩摩・長州など西南雄藩に奪われ、慶応三年十月には大政奉還を申し出ざるをえなくなった。慶応四年一月の鳥羽・伏見戦争後は、畿内以西では新政府側の支配が確立した。
 4表のように、幕末期の一橋領のうち石高で七十四パーセントは畿内以西にあったが、このうち摂津・和泉は最寄りの領主、播磨は兵庫司農掛、備中は広島藩の預かりとなった。慶応四年五月一橋家は新政府より藩に加えられた。これをうけて、翌六月一橋家はこれらの領地と陣屋の返還を新政府に申し出、翌七月その返還が認められた。明治二年三月一橋家は全国の藩主とともに版籍奉還を願い出た。ところが諸藩主の大多数が藩知事に任じられたが、もと御三卿の田安・一橋両家にはその沙汰がなかった。九月に茂栄は政府に藩知事への任命を願い、その後翌年三月まで家臣たちが連名で太政官に二度にわたり願い出たが、藩知事への任命は実現しなかった。十二月一橋家の版籍奉還が認められ、あわせて今後当主は東京に住むこと、家禄として従来の年貢・雑税の一割を与えること、家臣は相当の家令・家扶・家従・召使などを残して、他は地方官属とされることを命じられた。翌明治三年一月一橋家の旧領地が県に引き渡された。関東・北陸では、武蔵国埼玉郡を小菅県へ、同国高麗郡を岩鼻県へ、同国葛飾郡と下総国葛飾郡を葛飾県へ、同国結城郡を若森県へ、下野国芳賀郡・塩谷郡を日光県へ、越後国岩船郡を水原県へそれぞれ引き渡した。こうして一橋家の支配は終息し、高根沢町域は下野国の旧幕領・日光神領・旗本領などを引き継いだ日光県の管轄となった。ここに一橋藩は他藩にさきがけて廃藩となった。
 一橋家自体は、藩知事に任命されなかったものの、明治十七年(一八八四)七月華族令の公布に伴い、茂栄の後を継いだ達道が伯爵を授けられている。明治三年以降、高根沢町域は一橋家と直接の関係はなくなったが、同年十月に宇津権右衛門が鮎五十尾を一橋家に献上している。宇津権右衛門よりの鮎献上は少なくとも明治八年まで続けられ、一橋家はこの返礼として一定の金品を渡している(辻 達也編『新稿一橋徳川家記』、一九八三年)。
 
4表 幕末期の一橋家領知
国名郡名村数石高百分比
摂津
川 辺215805.0937012.38
豊島235116.62190
島下103825.43363
小計5414747.14923
和泉大鳥93843.0542015.57
4514707.62067
小計5418550.67487
播磨多可268537.7983118.26
加東63033.55600
加西81516.97800
印南124426.07600
飾西52079.38400
揖東72160.89500
小計6421754.68731
備中上房96106.0299027.88
小田2914512.22395
後月2612594.08650
小計6433212.33945
武蔵埼玉198130.9973010.95
葛飾111469.67542
高麗153440.88530
小計4513041.55802
下総葛飾6878.430103.68
結城73506.90000
小計134385.33010
下野芳賀64138.614905.17
塩谷22017.59720
小計86156.21210
越後岩船107274.591506.11
合計312119122.54258100

弘化3年4月「一橋御領知村高書訳帳」(川端家文書)、(森 杉夫著『近世徴租法と農民生活』柏書房、1993年、163頁)