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高根沢の旗本領

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11図 近世末期下野の旗本知行所分布(『栃木県史』通史編5から)

 近世末期の下野の領知構成を『旧高旧領取調帳・関東編』からみると旗本の知行所は下野全体の三十四パーセント余りを占め、下野各地には二十六万三千石余りの旗本領が分布していた。その残りは、大名の支配する藩領が全体の五十一パーセント、幕府の天領が十一パーセント、日光領をはじめとする寺社領の四パーセントであった。塩谷郡については、藩領の比重が圧倒的に大きく、郡の六十一パーセントを占めていたのに対し、旗本知行所は郡のわずか十五パーセント弱、八千八百石を占めるにすぎなかった。
 『旧高旧領取調帳』によると、明治を迎える頃の高根沢には、本多駒之助、福原子之吉、伊沢刀之助の三人の旗本の知行所が、高根沢内の七か村にあった。
 旗本本多駒之助家の支配地は、下野国塩谷郡八か村のほかに遠江国(静岡県)・安房国(千葉県)に、合わせて知行高三千石を有する大旗本として、天保年間には、御三卿の一つ清水家の家老を勤めていた。『寛政重修諸家譜(六九三巻)』によれば、この本多家は近世初期の宇都宮藩主本多正純の直系子孫である。正純の改易後、その孫の本多正之のときに、四代将軍家綱により許されて旗本に取り立てられ、三千石を領するようになった。更にその後「元禄元年(一六八八)駿河国の領知を塩谷郡に移し、全て三千石を知行する」と、塩谷郡の本多家知行所の成立を伝えている。後で述べる旗本伊沢家の高根沢における知行所の成立と同様に、近世初頭には宇都宮藩領であったものが、藩主の転封に伴い宇都宮藩領が縮小し、その空いた部分に旗本領が設けられたり、あるいは一橋領としての支配を経たのちに旗本領となったものであろう。本多家は、高根沢の五か村の内に合わせて千八百二十八石余りを知行し明治に至っている。
 旗本福原子之吉家は、佐久山に陣屋を置いた福原内匠家の分家である。内匠家は、那須衆の一つとして戦国時代以来の下野の旧族であり、旗本でありながら大名と同様に陣屋のある佐久山に住むことを認められ、参勤交代をする交代寄合の家格をもっていた。幕末期には那須郡を中心に三千五百石を領していた。
 福原子之吉家は、『寛政重修諸家譜(七三六巻)』によると、元禄十四年福原資直のとき、この内匠家の知行所から塩谷郡一か村・芳賀郡二か村のうちに五百石の地を分与されて一家を立て、明治維新に至ったものである。高根沢の知行所も、近世前期以来の福原内匠家の知行所が、元禄十四年に子之吉家に分与され成立したと推測される。高根沢では、下柏崎村に百八十二石余りを知行していた。
 
5表 幕末期の高根沢の旗本領
平田村本多駒之助知行所699石372
西高谷村本多駒之助知行所154石0475
前高谷村の内本多駒之助知行所523石37786
上柏崎村本多駒之助知行所208石5885
亀梨村本多駒之助知行所243石469
下柏崎村の内福原子之吉知行所182石1902
中柏崎村伊沢刀之助知行所169石963
旗本領合計2,181石00806
(史料編Ⅱ・128頁)