中柏崎村の領主である旗本伊沢家においても同様である。旗本は財政難から知行所の村々からいかに多くの収入を得るかに工夫をこらすようになる。せっぱつまった伊沢家は、先納金という名目の借金である年貢の前納を村々に命じたほかに、特に、火事の類焼による旗本の江戸屋敷の再建等を名目とした臨時徴収金である御用金の上納を命じたりした。このようなことは、中柏崎村では十八世紀始めの享保年間には日常的になっていたようである。
一 金拾五両は、今度御類焼につき御用金仰せ付けられ、指し上げられ受け取り申し候。当年暮れには十二両に付き一分の利息を加え、元利共勘定相立てらるべく候。
享保三戌年正月二十七日 川口十郎右衛門 印
田中権兵衛 印
(以下三人分略)
柏崎村 名主、組頭中
(史料編Ⅱ・七二四頁)
これは、旗本伊沢家が屋敷の類焼のため御用金十五両を享保三年(一七一八)に中柏崎村から出させたときの受領書である。十五両は、その年の暮には約二パーセントの利息を加えて返済する旗本の借用金の形となっていた。なお、中柏崎村は、史料上ではすべて柏崎村とのみ表記されることも多い。
残された史料からみても、この享保三年の一年間だけでも、御用金及び先納金を命じたものが合わせて四通残され、合計百両にものぼる御用金・先納金が命ぜられている。他に収入のない旗本は、これらの借用金はすべて毎年の年貢によって清算することになる。
ところが、享保九年(一七二四)の中柏崎村年貢勘定目録(中柏崎 小林和夫家文書)によると、この年の年貢米九十七俵ほかの田畑の年貢に対して、今年分の年貢先納、昨年分の年貢先納が合わせて四十五両余りとなって、それらを計算すると「指引き二十一両二分と七百文の過納」となっていた。この超過負担である「過納」の状況はこの年だけに限るものではない。中柏崎村の先納金等を整理して役人に提出した「覚え」によると、享保九年から十七年までの九か年の間で、過納分の精算のために旗本から返金があったのは享保十年の六両余のみ、また先納金上納が命ぜられなかったのは享保十一年の一か年のみであった。その結果、享保十八年に過納としていまだ返済されてない年貢先納金の総額は、利息も含めて百十二両余にも及んでいた。これは中柏崎村の年貢の二年分以上にあたっている。このような「過納」という負担超過のままで、新たな先納金・御用金が命ぜられると、そのまま中柏崎村の負担として次第に累積していくことになる。
このような負担が恣意的に増大する事態に対して、村側では決して手をこまねいていたわけではない。農民の負担には限度があり、何らかの手を打つ必要が迫っていた。享保十九年(一七三四)十一月の七か村の総百姓連印一札(史料編Ⅱ・七二六頁)は、その一つの現れと思われ、注目すべき点をもっている。
連印一札は、旗本との訴訟に備えて、下野七か村全部が一致相談し、必要ならば江戸にまで訴えでること、その費用については村民が間違いなく負担することを約束している。連印一札は、総百姓連印の一揆契約そのものである。この一札にいう「旗本との訴訟」の内容や「下野七か村」の具体的な固有名詞はどこにも記されていない。しかし、中柏崎村が関係する旗本、この旗本が下野に持っている領地七か村とは、旗本伊沢家と下野の伊沢家知行所七か村以外には考えられない。そして、訴訟とは、享保十九年の、恣意的負担の増大という事態に対して、村と旗本の対応の過程の中から発生したものとみて間違いないであろう。
この享保十九年の総百姓連印一札には、これ以上の具体的な内容や訴訟の経過やその結果については何も記されていない。しかし、旗本伊沢家と下野の伊沢領七か村との間に、江戸出府までも予測させる重大な問題、緊張関係が発生していたことは間違いないことであった。旗本が先納金等によって必要な資金を賄うやり方は、もはや限界に達していた。旗本は必要な資金を提供してくれる金主を、村の外に求めざるを得なくなっていた。この享保十九年を境に、旗本伊沢家の中柏崎村支配に変化が現れてくる。