覚え
一 米九十五俵、当戌の年より来る未の年までの十か年の内、村の物成を白久弥兵衛方に相渡すべし。これにつき当方へは相談には及ばない。もっとも、村の百姓から引き請ける旨の証文は渡さなければならない。
右の趣に少しも相違なく相渡すべし。
寛保二壬戊年三月 安藤治郎左衛門 印
野村造酒右衛門
岡野幸右衛門 印
今岡武左衛門 印
石井平 馬 印
柏崎村 名主、組頭
(史料編Ⅱ・七二五頁)
この命令の意味するところは明らかである。村の物成つまり年貢米から九十五俵ずつを今年(寛保二年)から未年(宝暦元年)までの十年間、白久弥兵衛に引き渡すこと、引き渡しについていちいち領主の旗本に了解をとる必要はない、村は年貢米の引渡しを確約する証文をださなければならない、等々、白久への年貢米引渡し命令であった。
この命令書に差出人として署名している五名の名前をみると、前年の年貢皆済の覚えやこの年の年貢皆済目録に署名している者とまったく同一であり、この命令が直接旗本伊沢家の年貢徴収を担当する役人により行われた処置であることを示している。
さらに、この三年後の延享二年(一七四五)二月には、中柏崎村にふたたび命令がだされた(史料編Ⅱ・七二五頁)。それは、今後二十年間にわたり年貢米九十五俵ずつを白久弥兵衛に引き渡すこと、二十年を過ぎても、旗本の指示があるまでは継続することを命じたものである。この年貢米引渡し処置が、半ば永久的なシステムと化している。米を恒常的に確保したい米商人の立場とすれば、白久弥兵衛は恒常的に一定額の米を無条件で入手できるという大変有利な条件を獲得したことになる。このような有利な条件を白久はどのようにして手に入れることができたのであろうか。
13図 寛保2年3月 白久弥兵衛へ年貢米引渡しにつき申し渡し(中柏崎 小林和夫家文書)