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中柏崎村の年貢米

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 白久弥兵衛は、栃木県下都賀郡の壬生河岸の商人である。壬生城下町に隣接する壬生河岸は、思川水系の黒川の中でもっとも上流の河岸として、近世の早い時期から物資の集散地として知られていた。特に十七世紀末の元禄時代には、宇都宮から鹿沼周辺の広範囲の天領村々からの年貢米は、壬生河岸から積み出され江戸の浅草蔵前まで運送されるなど、特権的とも言えるような有力な河岸であった。白久はこのような壬生河岸の一商人である。
 十八世紀前半の享保時代になると、この壬生河岸の商人白久弥兵衛が中柏崎村の年貢納入に関係するようになった。享保十九寅年分(一七三四)と翌年二十卯年分の中柏崎村年貢皆済目録(史料編Ⅱ・七二七頁)を並べて見ると、年貢の納め方に大きく違っている点がある。それは、享保二十年分の皆済目録では、年貢米合計の百二俵余から必要経費を差し引いた残り九十八俵のすべてが「白久弥兵衛殿渡す」と、白久に引き渡されている。残された史料に「白久弥兵衛」の名または「壬生」の地名を見るのはこの年が最初である。以後毎年のようにみることかできる。白久と中柏崎村の関係は、享保二十年から始まったとみることができる。
 この白久弥兵衛を単に年貢米の運送業務や米の売買だけを受け持っていたとみることはできないであろう。白久を、旗本伊沢家の年貢米の出納や売却を担当した蔵元、あるいは年貢米の売却代金を保管して大名を送金する掛屋に近い役割を果たしていたとみた方が自然であろう。元文五年(一七四〇)の「覚え(返済金受領証)」を見ると、前年に白久が用立てた十両が村から返金され、確かに受け取ったとある。これは、本来は村が用意すべき旗本への上納金の十両を、村に代わって白久が一時用立てをして、その分が翌年に村から白久に返済されたことを示している。今までのような村が御用金を出すのに代わって、白久が中柏崎村と旗本の間に立って旗本が必要とする資金を必要な時期に村に代わって代弁し、その弁済を中柏崎村の年貢米で行うという仕組みが、このときすでにでき上がっていたことを示している。白久は旗本伊沢家の金主であったのである。
 こう見てくると、十年間あるいは二十年間の長期にわたり、領主に断ることなしに村の年貢米を無条件で受け取ることができるような命令を出させた白久弥兵衛の強い立場、白久に大変有利な条件を出した旗本の弱い事情、異論なく命令に従っている中柏崎村、という相互の関係が見えてくるのである。