村に残された年貢関係史料から、中柏崎村と白久弥兵衛の関係を見てみよう。中柏崎村には、この頃の年貢関係史料が、皆済目録または勘定目録の形でほぼ連年分残されている(中柏崎 小林和夫家文書)。
享保二十年(一七三五)から寛保元年(一七四一)までの年貢皆済目録をたどってみると、中柏崎村の年貢米の大半が壬生の白久弥兵衛に引き渡されている。その量は、多い年で九十八俵、少ない年でも七十俵となっていた。多い年にはその年の年貢米の全量、少ない年でも七十一パーセントに相当する量である。前に述べた寛保二年の年貢米引渡し命令は、このような状況を追認するものと同時に、今後十年間という永続的な安定した関係にするための契約であったということができる。これによって、旗本の金主としての白久、米の供給地としての中柏崎村の関係が確定したのである。
延享二年(一七四五)に二回目の年貢米引渡し命令がだされるまではこの安定した関係が続き、九十五俵という量はともかく、年貢米のほぼ全量が白久弥兵衛に引き渡されていた。ところが、延享四年以後の年貢勘定目録によると、その状況は変わってきた。
延享三年は「年貢米七十俵、壬生納め」として今までどおりであったが、翌四年には、年貢米百三俵は、米そのものの納入ではなく、換金後にその代金四十一両の内の二十三両を白久に納入している。翌寛延元年(一七四八)も同様であった。年貢米九十五俵を白久弥兵衛へ納めるという本来の契約に代わって、年貢米の五十パーセント前後に相当する代金が白久に納められるに過ぎなくなった。寛延三年には、白久にはわずか代金十二両の納入だけとなってしまった。延享二年の旗本の年貢米のほぼ全量を引渡すという命令は、延享四年以降履行されず、その代金が、それも一部分が支払われるのみという状況に変質してしまったと言える。