このように、一旦は中柏崎村の年貢米の全てを手にいれた白久弥兵衛であったが、その立場は長くは続かなかった。その事情、理由を類推させるような史料は何一つ残されていないが、白久への年貢米引渡しは停止され、契約は実行されなくなってしまった。
年貢勘定目録によれば、量の多少はあったにせよ、宝暦三年(一七五三)までは間違いなく中柏崎村の年貢米またはその代金が白久のもとに送られていた。ところが、翌宝暦四年の皆済目録では、年貢米は「江戸納め及び(江戸)御払い」として、白久とは関係のない江戸で換金処分されるようになった。以後、「壬生」あるいは「白久弥兵衛」の名が中柏崎村の史料上に現れることは二度となかった。
享保二十年(一七三五)から始まった中柏崎村と白久の関係は、宝暦三年をもって縁が切れてしまったのである。明和元年(一七六四)までの二十年間、九十五俵ずつの年貢米を白久に渡すという契約は破棄されたのである。この事態に対し、年貢皆済目録にもあるように旗本も了解していたのである。さらに、中柏崎村側でもこれに反対していない。享保十九年の総百姓連印一札のように、村々が結束して反対運動をした形跡はない。どうやら白久の側に契約破棄の事情があったようである。では、米商人とすれば大変有利な条件を手に入れたはずの白久側に、どんな事情が考えられるのであろうか。
そもそもこの契約は、白久が旗本に資金を提供し、白久はその代償として手に入れた九十五俵の米を毎年販売することによって提供資金の回収を図る意図であった。これは一種の米の先物取引きでもあった。米販売の結果、高く売れれば売れるほど白久に利益をもたらすこととなり、逆に米価が安ければ白久の損となり、それ以上契約を継続する意味はなくなるのである。この換金の結果は、その時々の米価により左右される。米価が上昇している限り、白久は年々利益をあげることができたはずであった。
こう推定してみると、米価の変動をみることによって、商人としての白久の撤退の事情を推測することも可能である。では、実際の米価の推移はどうであったのだろうか。
毎年の年貢納入が完了すると、中柏崎村では年貢皆済目録あるいは年貢勘定目録の形で旗本に納入の報告をした。ここには、年貢納入の実態か記され、また年貢米を金納する際の米金の換算率が記入されている。例えば、寛保二年(一七四二)の皆済目録では「両に九斗六升替え」と、年貢を実際の米で納める代わりに金納する際の換算レート、石代値段が指定されている。このレートは、御張紙値段という幕府公定の米価を基にしたものであり、市中の米価を反映したものとされている。14図は、中柏崎村の年貢皆済目録あるいは勘定目録から米金の換算率を抜き出して、寛保二年を基準とした米価の推移を指数で表したものである。また、参考に御張紙値段の推移も合わせて示した。
白久が中柏崎村の年貢に関与したのは、享保二十年(一七三五)が最初であった。このときのレートは、享保十九年の皆済目録で「一両で米一石四斗八升二合」であった。年貢米九十五俵の換金価格は約二十五両二分余りとなったはずである。その後の数年間で米価は二倍以上に急騰して元文三年(一七三八)には「一両で米六斗四升」とピークに達し。その価格は約五十九両一分余りとなり、米を販売した白久の利益は莫大であったことが推測される。寛保二年(一七四二)でも「両に九斗六升替え」であり、九十五俵の販売価格は約三十九両二分余りにもなったはずである。寛保二年以降、十年間また二十年間という長期の契約をした白久の意図は、これ以降も米価の高水準が続くことを予測し、毎年の利益を目論んだものであることは容易に想像がつく。しかし、現実は目論見とおりにはいかなかった。その後米価は低落化の傾向をたどり、寛保二年の水準に遠く及ばない状況も続いた。宝暦三年(一七五三)には「一両で米一石四斗一升」となり、九十五俵の価格は約二十七両にすぎなかった。
宝暦三年を最後に白久が中柏崎村から撤退したのは、商人としては至極当然の判断であったといえる。
14図 近世中期の米価の推移(寛保2年を100とした指数)
出典:1 年貢米価は、中柏崎村小林和夫家文書の年貢皆済目録、同勘定目録から。
2 御張紙値段は、土肥鑑高『近世物価政策の展開』から。