白久が撤退した後の中柏崎村と旗本はどうなったのであろうか。
宝暦三年(一七五三)を最後に、中柏崎村は白久弥兵衛のもとに年貢米を送らなくなった。旗本伊沢家は、生活に必要な資金を白久から引き出せなくなったわけである。といっても、米価の低落が続くなかで、年貢の徴収と年貢米の販売だけでは間に合うはずがない。そこで旗本は、中柏崎村からできるだけ多くの収入を、それも確実に得る多様な方法を試みるようになった。
それは、宝暦三酉年分の年貢勘定目録から見ることができる(史料編Ⅱ・四五七頁)。この目録をみると、先ず年貢米、畑方・夫銭の金納分が合わせて四十両余となっている。ここまでは従来の勘定目録と同じであるが、その次に新たに二百七十一俵の炭が小物成(雑税)として、その代金十四両余と計上されて。畑方年貢の不足分ほかの上納分に充てられている。勘定目録によると、この年の年貢の総額が四十両余に占める炭代は三十五パーセントにも及んでいる。さらに翌宝暦四戌年分の年貢皆済目録では、年貢米、畑方・夫銭の負担に合わせて、炭二百十七俵の代金十一両余に加え、板二十八束・中貫十二束の代金三両余、炭板貫合計十四両余が計上されている。以後、炭・板貫の負担は恒例のように毎年の年貢勘定目録または皆済目録に現れてくる。未開発の雑木林から生ずる炭を中心とする林産物が、旗本にとっては新たな収入源となり、村にとっては新たな小物成として大きな負担となっていった。中柏崎村の炭の生産はこの後も盛んに行われるが、ただし、村がそのまま年貢負担の増大を容認していたわけではない。