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旗本への月並金納入

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 旗本伊沢家は、間もなく再び資金難に陥ってしまったようである。このまま旗本が必要とする資金を村々の負担増によって賄おうという方法には限界があり、行き詰まりを生ぜざるをえない。年貢を始めとする村々の負担には限界があるのである。さらに年貢を担保として。必要な資金を必要とする時期に知行所の村々から徴収するというやりかたも。年貢の収支が合わない慢性的赤字の状況では継続は困難であり、さらに、村の外に資金の提供者を求めることもまた困難であった。
 ついに、明和元年(一七六四)中柏崎村に年貢の定免制が採用されるようになった。明和元年の申年から同四年の亥年までの四年間の年貢量を一定額に固定したのである。この四年の間は村は一定量の年貢納入を確約する。その代わりに旗本も臨時負担増を要求しない、村も負担増には応じないという制度であった。年貢の定免制は、村側にとっては、農業の生産性があがれぼ農民の手元に残る余剰をもたらすものであったが、逆に、旗本領主にとっては、一定額の年貢の確保はできても、収入の増大をもたらすものではない。
 旗本伊沢家の財政難打開の努力はその後も続くのである。この旗本財政難の打開のためには。財政規模の縮小、殊に倹約によって旗本に支出削減を求めるのか自然の成り行きであった。ついに村々は、倹約による支出の削減を実現するため。村が旗本の財政支出を監督し。支出の総額を定めてその範囲内に限って知行所村が資金の提供を請け負うようになった。旗本領主と言っても、毎月定められたお金、月並金以外は一切使えなくなったのである。旗本の財政を村が賄うという方法が採用されるようになった。
 明和六年(一七六九)の月並金上納請書「一札の事」(史料編Ⅱ・七二九頁)は、先納金を負担するにあたって、旗本伊沢家の知行所十四か村が旗本伊沢家の給金を始めとする三月から九月までの入用額等の総支出額を四百八十両と定め、その範囲内で知行所村々で毎月の出金を請け負ったものであった。翌明和七年も同様五百五十両の範囲内と定められている。旗本伊沢家の財政は、十八世紀後半の明和年間になると、中柏崎村をはじめとする知行所村々の管理下に入ったということができる。
 時代は動いている。もはや、旗本が必要とする資金を知行所村々から年貢として自由に取るという訳にはいかない時代になってきたのである。
 
7表 明和7年(1770)月並先納金上納一覧
知行所村名各村の負担額及び使途合計
下野国中柏崎村18両正月入用、7両3月入用25両
東泉村30両正月入用、15両3月入用45両
田野原村20両正月入用、8両3月入用28両
湯津上村14両正月入用、30両3月入用44両
村井村10両正月入用、10両3月入用20両
粟野村 8両正月入用、20両3月入用28両
片柳村20両3月入用20両
下総国前か崎村26両8月入用26両
上総国木崎村10両正月入用、26両8月入用36両
力丸村20両2月入用、50両3月入用106両
36両7月入用
小高村26両正月入用、16両3月入用62両
20両7月入用
桑田村30両2月入用、80両7月入用110両
桜谷村
徳増村
総 額550両

(史料編Ⅱ・731頁)