高根沢の村の成立事情や村役人の由緒などには、不思議に移住伝承がつきまとうものが多い。村の草創伝承とか草分け百姓の由緒以上に、特定の時期に他国から移住してきたという言い伝えが目立つのである。阿久津和泉守が天文二十一年(一五五二)大谷村に移住してきた。との伝承もその一例である。
ひとつひとつの事実の真偽は別にしても、こういう伝承には、多分に近世高根沢の成立事情を反映しているとも考えられる。伝承のあらすじは、最初に鎌倉・南北朝のころの遠い先祖が高根沢の地元と繋がりのあったことを述べ、そののち数百年の空白期を経て、近世の成立時のある事件をきっかけに村に居住することになった、というのが通常のパターンである。例えば、先の大谷村の「大谷元清より八代の孫の弥六兵衛尉守勝が、関が原の戦いに没したため、浪人の阿久津石見守守時が継ぐ」の場合も、大谷村の元祖といわれる右門正の子孫が「小田原方に属して破れ、須隆一族は大谷村に、須藤も関俣村に土着した」などの伝承の場合も、その代表的なものである(大谷 阿久津幽樹家文書)。
高根沢における近世社会の成立は、秀吉、家康による天下統一と、その後の宇都宮氏や那須氏、塩谷氏などの旧族の改易の事情が色濃く反映していた。改易は、その下級家臣団にとっては、近世の武士として生きる道がとざされることになり、高根沢の地に帰農土着の道を選ばざるをえなくなった。高根沢の伝承は、このような祖先の開発以来ではなく、その後の帰農土着という村の成立事情を反映したものと考えてよいのではなかろうか。