1図 入百姓と共に移ってきた徳明寺(桑窪)
各村の寺院のなかには、近世後半期になってからある目的意識のもとに、まったく新たに創建されたものもある。近世後期の荒廃化のすすむ中で、文政六年(一八二三)と伝えられる桑窪村の徳明寺の創建もその一例である。
荒廃に瀕した一橋領の村々では、当時盛んに復興のための諸政策が実施され、入百姓の導入もその一方策として広く行なわれていた。文政七年、高根沢においても栗ヶ嶋村・太田村・寺渡戸村・その他の村々で、田畑手余り荒地の起こし返しのため、入百姓が積極的に導入されようとしていた(史料編Ⅱ・七一八頁)。これら入百姓は、日本海側の加賀(石川県)・越後(新潟県)等の浄土真宗の門徒、北陸門徒の出身であったという。
当時、下野の真岡代官領の村々でも、すでに越後等から下野への入百姓導入がさかんに行なわれていた。日本海側の国々では、耕地の割りに人口が多く百姓を移出させても影響はないと思われていた。ただし、真宗門徒の多い日本海側地方からの移出については、北陸等の旦那寺が信徒を失うことになるとして猛反対をした。そこで幕府代官は、移出後も真宗門徒であることを保証し、移出先に浄土真宗寺院を新たに建てることを約束したのであった。真岡八条村の本誓寺はこのようにして入百姓と共に創建されたのであった。
桑窪村徳明寺の創建の事情も、本誓寺の場合と同様なものであろう。桑窪村の荒地再開発のため、このとき僧侶も入百姓と一緒に入植してきた。徳明寺の創建のため、まま成らなかった仏堂修復には、下野・下総・武蔵国の広範囲の真宗門徒の支援を受け、また仏堂の阿弥陀如来像は、近隣の廃寺となっていたものを入手したと、のちに記録されている。