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代参講

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 物まいりや遊山と呼ばれるレクリエーションが、近世の早くから庶民の間にも行われていたことは、十七世紀中ごろの有名な「慶安の御触書」に「物まいりや遊山好きな女房を離別すべし」と言っていることにもよく現れている。信仰を目的としながら、物見遊山が結びついた有名神社仏閣への参詣は、高根沢でも伊勢参詣、西国巡礼、出羽三山参詣などが行われていた。
 下野の国では十五世紀ころには宇都宮氏、那須氏などの諸豪族が伊勢神宮の檀那になっていたことや、慶長二年の宇都宮氏改易後、旧臣たちが帰農・土着した関係もあって、伊勢信仰が村々の有力農民の間に広まっていた。高根沢で元禄十四年(一七〇一)にかつて伊勢神領だった栗ヶ島に、伊勢神宮を勧請した神明宮が祀られたのはその一つの現れであろう。また、伊勢信仰を広めていた「御師」(中世編参照)たちが十七世紀半ば頃から、年中行事や農事の基準となる「伊勢暦」を「伊勢土産」の一つとして村々へ配るようになってきたことも、伊勢信仰をより深く人々の生活と結びつけていった。
 江戸時代の中・後期になると、伊勢参りに代表される寺社参詣の旅は代参講という形に組織されて、一層盛んになってきた。そして、伊勢参りとはいっても実質は伊勢参詣と善光寺参り、西国巡礼などがセットになって行われていた。旅にでる時期は諸国の農作業や農産物を見られる五月と、農閑期の十二月が多かった。また、代参講は講の仲間が米や金を持ち寄って積み立てるか、講の財産から入る利益を積立てて、寺社参詣の費用にあて、仲間の中から代表をたてて参拝し、御礼や護礼を貰って帰るという仕組みだが、長く講に入っていれば一生に一度は参詣の旅に行かれたのである。
 町内には籠関に享保十四年の西国三十三所巡礼の碑、上太田に天明六年の秩父・西国・坂東百観音霊場巡礼の碑、その他年代不明と近代になってからの巡礼碑が上高根沢二、太田一、伏久に一つ残っている。また、日本全国の一の宮に詣でて法華経を納める六十六部回国巡礼の供養塔も柳林の享保五年のものを初め柏崎、中阿久津、上高根沢中部、金井、中郷に残されている(『高根沢の祭りと行事』高根沢町教育委員会)。

2図 享保14年(1729)建立の西国33所供養塔(石末・籠関地内)


3図 享和3年(1803)建立の四国・西国・坂東・秩父霊場巡拝供養塔(中阿久津地内)