高根沢にも多くの代参講がつくられ、代参した人たちが帰ってから講の仲間に報告するために記録した道中記が残されている。鷺ノ谷の野中寛家には享保十五年(一七三〇)の「西国巡礼道中覚帳」と天明八年(一七八八)の「西国道中記」が保存されている。前者は比較的早い時期のものなので、それで当時の庶民の旅の様子を見てみよう。
この西国巡礼の一行は鷺野谷村・野中弥助、長太郎、宝積寺村下町の七兵衛、掛右衛門、同坂下の次郎左衛門、同石塚の吉兵衛、同吉内の新八、権兵衛、同川原の重兵衛、同川原内の儀左衛門の十名だった。
一行の参詣目的地はまず長野の善光寺である。笠に○に叶の字を書き目印とし、五月二十五日早朝出発、宇都宮から鹿沼、粟野を経て足利へ向かった。粟野から足利への途中、出流で観音、大日如来、弘法大師の岩屋を詣でる。足利からは中山道にはいり、松井田、小諸を経て六月五日善光寺に参拝。善光寺では「三門高さ五丈五尺、上に十六羅漢、下に四天王が有り」と建物の壮大さに賛嘆し、その日は府中に泊まり。六月八日には諏訪大明神、上諏訪大明神に参拝し一泊。そしてつぎの目的地伊勢神宮へ向かう。塩尻、木曽福島を経て六月十三日名古屋着。旅籠町で一泊、「尾張様知行百万石」と記し、その繁栄振りと六十八軒という宿屋の多さに驚いている。名古屋から津島へでて泊り、翌日は舟一艘を七百文で買切って桑名まで舟道三里を行き、さらに四日市へでる。ここが東海道と伊勢路の分岐点である。伊勢路にはいり六月十六日に松阪に着く。十七日、古くから付き合いのある「御師」佐八太夫の宿へ着き、夕方「内宮天照大神様御参り」をし、佐八の町宿に泊まる。翌朝、朝熊宮へ参ってから下宮を参拝する。「内宮八十万社、下宮四十万社」という末社の数を記しているのは、伊勢信仰の広がりの大きさに感嘆したのであろうか。
高根沢を出てからここまでの道程二百九里二十四町、二十三日かかったから、一日平均九里(約三六キロメートル)を歩いたことになる。