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男体禅頂講

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 日光男体山の登拝を目的とした男体禅頂講も、下野各地に広くみられる代参講の代表である。幕府の聖地日光は、本来民衆の信仰と結びつくことが少なかったが、この男体禅頂講の成立により、近世後期には男体信仰の全盛期を迎えることになる。
 男体禅頂(男体禅定)は古くからの山霊信仰と日光の山岳修験が結びついた、七月の男体山登拝を中心にした行事である。各村では修験行者の指導のもとに潔斎修行をして日光に向かい、男体山に登拝して山頂の奥宮に代参したのである。
 この集団登山は修行の場を麓の湖水に代え、登山ではなく船を利用して湖岸の堂社・霊所を順拝する船禅定、浜禅定の出現によって、一般民衆も参加できる山行きとしてさらに盛んになっていった。
 寛政九年(一七九七)、男体山奉納定式が改正され、村々に通知された(平田 鈴木 順家文書)。これは、男体山禅頂の際の奉納金を同年七月から引き下げる、というものであった。新奉納金額は、新客からは一人金一両余りと高額である。ただし修験行者が先達する新客は金一分と割安になっている。
 男体禅頂において、禅頂講とそれを組織する修験行者の役割が大きな比重を占めていたことが、この優遇に現れたものであろう。
 男体禅頂講の盛行には、荒廃化のすすむ下野においても、たくましく生活をエンジョイしながら、明日の繁栄を祈る高根沢の農民の姿を見ることができるのではないだろうか。

5図 男体講記念碑 元治元年(花岡・西下地内)


6図 現在の男体山登拝安全御守護札