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高根沢の手習塾

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 近世の社会で生きていくには、文字を使いこなすことは必須の条件であった。たとえ農村にあっても同じである。
 江戸時代の社会システムの根幹は、城下町に住む武士が遠く離れた農村に文書で命令を伝え、支配していくところにあった。文字の必要性は、村役人はもちろん一般農民も同様である。生活を向上させるためには、常に作物栽培の新しい知識を導入する必要があり、また、肥料の購入、労働力の雇用など、記録帳簿の作成と計算能力は、農家の経営にとって不可欠だったからである。
 このような文字学習の要求は、近世末期には都市から農村まで広く共通することであった。要求は、単なる文字の手習いから、漢文の意味を読みとる素読の段階、さらに漢学、和学の学問の世界へと深まっていった。それに伴い、各地に手習塾から学問塾と称する多様な学習の場が展開していった。寺子屋とか私塾と呼ばれているのがこれである。高根沢においてもまったく同様で、多様な手習塾が生まれたものと思われるが、編さんの過程では新たな資料を見い出すことができなかったので、ここでは従来の資料を紹介することにとどめる。
 昭和三十四年(一九五九)に完成した栃木県連合教育会『栃木県教育史全五巻』によると、塩谷地方に寺子屋、塾は三十二塾が調査され、高根沢については六箇所の塾が報告されている。その概略は次のとおりである。
 
  1 博愛館  所在 上高根沢西根  塾主 宇津広之進(号は南岱)
         開塾は安政初年ころ、明治九年に私立宇津学校と改称
       宇津広之進は常陸国宍戸に生まれた。始め医術を学び、さらに水戸で漢学を学んだ後、高根沢にきて医者を開業し、宇津を名乗るようになった。安政の始めに江戸・京阪に遊学した後、まもなく高根沢で漢学の教授を始めた、という。
  2 誠修館  所在 上高根沢   師匠 佐間田藤兵衛(組頭)
         開塾は嘉永元年、明治四年ころ閉鎖
       なお、『日本教育史資料』(明治二十三年、文部省編纂)には、塾主宇津広之進、身分医師は、嘉永元年一橋領上高根沢村に、漢学・算術・筆道の私塾「誠修館」を開業とあり、博愛館と混同しているが間違いであろう。
  3 関又(俣)館 所在 花岡(関俣)地蔵寺 師匠 住職 野尻東流
           開塾は慶応元年、明治六年学制による学校開設で閉鎖
  4 小林塾    所在 花岡    師匠 小林正斉(旧喜連川藩御典医)
           開塾は江戸末期、明治初年ころ閉鎖
  5 大安寺    所在 桑窪大安寺  師匠 住職某
           開塾は江戸末期、明治初年ころ閉鎖
  6 谷口塾    所在 桑窪    師匠 谷口九平(九右衛門)
           開塾は江戸末期
 
 人々の文字学習の要求に応じて展開、発展してきた手習塾であったが、明治五年(一八七二)「学制」発布を機に転換を余儀なくされた。特に、翌六年に、県は学制の障害になると考えて従来の塾の閉鎖を命じたため、多くは学制の学校にとって代わられるようになった。