7図 寛文11年銘鰐口のある宇津家薬師堂
人々にとって病気は昔から変わらぬ苦しみの一つである。いまだ科学が発達する以前の時代にあっても、人々はこの病に対して呪いをもって対処するのとは別に、各地でいろいろな薬が作られ使われていた。その家に代々伝わる家伝の薬も生まれていた。家伝薬の中には、ときとしては施薬として他人に配られることも、また稀には販売されることもあった。
これら家伝薬の多くは、秘伝、口伝として書き残されることは少なかった。明治に入ると、売薬営業免許制の整備に伴って政府の取締りをうけるようになり、多くは「神仏の名をかり、あるいは秘伝秘法などと唱え人々を欺くもの」として消え去っていった。上高根沢に伝わる宇津救命丸は、家伝薬から発し近代的な姿に変えながら今に続く数少ない例である。
伝承では、救命丸の歴史は近世前期にまでさかのぼると伝えられている。大町雅美著『家伝薬「救命丸」の研究』によると、一橋領上高根沢村の宇塚家に伝わる家伝薬救命丸は「祖宗が承応年間にこれを発明」と言い伝えとして記録されている。また同じく家伝薬救命丸を伝える上高根沢村の宇津家についても、古くからまつってきた屋敷内の薬師堂には、「寛文十一年 宇都(津)氏」と銘のある寛文十一年(一六七一)奉納の鰐口が伝えられている。十七世紀にさかのぼる製薬と同家とのかかわりを窺い知ることができる。
救命丸は、近世初頭に上高根沢村で家伝薬として誕生した。しかし、宇塚家、宇津家のどちらにせよ、救命丸が記録上で明らかになるのは十八世紀半ば以降のことである。そして近世後期には、救命丸は「金匱救命丸」の名称でもって下野以外にまで広く知られるようになっていた。「匱」とは入れもののことで、高価な品物を入れる箱を意味した。救命丸に「金匱」という形容詞をつけて、神秘性とともに権威づけを図り、効能の確かさをうたいあげたものであろう。