宇津家の年代記によると、同家は宇都宮氏の旧臣であったが、主家の没落により高根沢に帰農土着し、代々名主を勤めるようになった。また年代記では、製薬に関する記事も近世初頭の元和期までさかのぼり、家伝薬の成立の古さを伝えている。十八世紀中ころになると、宇津家でいくつか作られていた家伝薬の中で、救命丸だけが中核を占めるようになってきた。宇津史料館発行の「史料館報」及び宇津家に連なる大滝晴子の研究によって、宇津家の家伝薬救命丸発展の経過をたどってみよう。
五代目宇津権右衛門(逸翁)のころ、十八世紀なかばには救命丸は施薬としての配布から売薬の段階に入った。ちょうど一橋領の成立のころである。宇津家には延享三年(一七四六)の木版の救命丸の効能書きが保存されている。救命丸に添える効能書きも、すでに木版が必要になる程に大量な薬量に達していたことを示している。安永四年(一七七五)に家督を継いだ七代目宇津権右衛門(薫教)の時代になると、救命丸は一橋家とかかわりを持つようになり、一層の発展、充実期を迎えることになった。
救命丸は、すでに安永六年には一橋家に採用されていたが、天明二年(一七八二)からは、お子様用の常備薬として郡奉行を通じて上納、買い上げられる制度になった。宇津家にはこの年からの「一橋御殿献上御薬御用留」が伝えられている。また宇津家には御紋付弓張提灯が与えられ、さらに急の御用に備えて御門通行の鑑札まで交付されている。寛政十年(一七九八)からは救命丸の献上が恒例化している。一橋家の絶大なる信頼であり、救命丸の権威を一挙に高めたに違いない。
七代目権右衛門薫教は、始めて他家から宇津家の家督を継いだものであった。このころ「家内取締り議定」等の家訓が整えられていった(『栃木県史』史料編近世四)。議定の三か条目には「救命丸取扱いの義は当家大切の株に候」と宣言し、さらに十か条では、すべて倹約し、美麗のことは慎むように命じながら「薬の効能祈念は、怠りなく仕来りのとおりにする」ことを命じている。宇津家の救命丸にかける意気込みを知ることができよう。また寛政六年には薫教により「逸翁略伝」が編さんされている(史料編Ⅱ・六二四頁)。先代の逸翁の略伝に合わせて、救命丸の大発展をもたらした薫教の事績を子孫に残そうとした自負にあふれたものとなっている(『史料館報第一七号』『逸翁略伝」について)。
[関連史資料] 宇津権右衛門逸翁略伝 (目録)
[関連史資料] 宇津救命丸ポスター (目録)
8図 宇津家の長屋門
かつてこの門の奥で救命丸がつくられていた。