9図 救命丸の製造と販売の歴史を語る宇津史料館
救命丸は、各地に取次店を置いて、ここを通した委託販売の形をとっていた。取次店の設置や販売代金の回収には「一橋家」の権威も大いに貢献したはずである。「文化四年(一八〇七)家伝御薬諸国取次所名前帳」(史料編Ⅱ・六二六頁)は、当時の救命丸の取次店一覧である。取次店の数は、出羽・奥州から西は備前まで三百七十四か所にもなり、この内、関東地方二百四十五か所、東北地方七十七か所が特に集中している地方であった。下野国内だけでも百四か所が書き上げられ、その販売網の広さには驚かされる(『史料館報第10号』「文化四年の家伝御薬諸国取次所名前帳」)。
また宇津家では、機会をみつけては積極的に救命丸の普及を図っていた。文政七年(一八二四)は伝染病の「はしか(麻疹)」が流行した。当時、はしかは多数の死者のでる病気としてもっとも怖い病気の一つであった。一方では、はしかは免疫性が強く、一度かかると生涯二度とかかることはない。昔の人はそれをひどく不思議に思い、神秘的にさえ感じていた。はしかの流行に対し、高根沢の一橋出張御役所では早速領内の各村々へ「麻疹流行について」のお触れを廻した(史料編Ⅱ・六三六頁)。
お触れは、はしかの予防とかかっても軽く済ませる方法を説いて、「小前末々まで洩れざるように申し渡すべく候」と念をおして徹底させようとしている。その方法とは、まず「滓一合とびわの青葉十枚のせんじ湯を使うこと」、次に「節分のとき門口に差した柊の葉を十八軒から一枚ずつ集め、せんじて用いること」とある。この二項目は、はしかについてどこにでもある広く知られたお呪いをお触れに取り入れたものである。そして最後に「宇津権右衛門売薬の救命丸を一粒ずつをせんじて用い候こと」としている。以上を「右の通り麻疹にかかる前に用いれば軽くいたし候と世上申し成す」と結んでいる。
一橋領では、伝染病「はしか」への対処として、科学的根拠のない呪いの民間療法と合わせて、地元の宇津救命丸を積極的に取り入れようとしていることがわかる。これは、宇津救命丸がどのようにして地域社会の中に普及していったかを示す一事例としても興味が尽きないものがある。