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水戸藩尊攘派の活動

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 水戸藩の尊攘激派いわゆる天狗党の争乱は、元治元年(一八六四)三月二十七日、藤田小四郎・田丸稲之衛門らの筑波山挙兵で本格化するが、水戸藩尊攘派の活動は前年の文久三年(一八六三)から活発になっていた。彼らは水戸藩が農民の教育機関として設置した郷校に結集して活動した。常陸国潮来(茨城県潮来町)・小川(同小川町)・玉造(同玉造町)・湊(同ひたちなか市)などの郷校に、水戸藩士の子弟、郷士・郷医・神主・修験・村役人・農民らが結集し、藤田小四郎ら尊攘派のリーダーも出入りし、攘夷思想を深めたり、軍事訓練を行った。尊攘派の結集は多額の食費や軍事費を必要とし、その資金調達は各地の豪農や商人に依存することとなり、資金調達の対象は常陸のほか、下野・上野・下総などの諸国にもおよんだ。
 文久三年五月に水戸藩尊攘派の浪人の集団が、宇都宮の豪商佐野屋に押しかけて軍用金を強要した事件が起こった。次はその時の風聞である(史料編Ⅱ・八一一頁)。
 
  文久三亥年五月八日に、佐野屋孝兵衛宅へ水戸浪人、はかま・羽織にて七、八人参り、上段へ通り居り、軍用金四百両借用と申し、泊り居りそうろう。皆々下にきこみ、又はたねがしま持ち居りそうろうなりと言うなり。
  何れ九日に御家中より大勢参りそうろうに付、立帰りに相成りそうろう後に、町奉行参りそうろうと言うなり。早ければこんざつ出来そうろうやと申すなり。
  此の節三十両遣し、持ち行きそうろうと言うなり。又二百両遣わしそうろう処、取らず返し、この後に参りそうろうと申す書付を置き、帰りしとも言う者これあり。
 
 この佐野屋孝兵衛は江戸・宇都宮を舞台に活躍した豪商菊池教中の通称であるが、教中は文久二年五月に、義兄の大橋訥庵らと幕府老中安藤信正の暗殺を企てて捕えられ(坂下門事件)、同年八月に獄死している。佐野屋はこうした苦況の際に水戸藩尊攘派の浪人に軍用金の拠出を求められたのである。浪人の集団は、上着の下に鎖かたびらをつけ、鉄砲を携行していた。宇都宮藩の町奉行らが駆け付けた時には、水戸藩尊攘派の浪人らは軍用金の調達に成功して引き揚げたあとだった。なお宇都宮藩では、水戸の浪人対策のために公用人馬の徴発があいつぎ、宇都宮の町役人がその確保に苦労していた(史料編Ⅱ・八一一頁)。

1図 文久3年5月「水戸天狗党浪人が宇都宮佐野屋に軍用金を強要した風聞書」