文久三年五月に水戸藩尊攘派の浪人の集団が、宇都宮の豪商佐野屋に押しかけて軍用金を強要した事件が起こった。次はその時の風聞である(史料編Ⅱ・八一一頁)。
文久三亥年五月八日に、佐野屋孝兵衛宅へ水戸浪人、はかま・羽織にて七、八人参り、上段へ通り居り、軍用金四百両借用と申し、泊り居りそうろう。皆々下にきこみ、又はたねがしま持ち居りそうろうなりと言うなり。
何れ九日に御家中より大勢参りそうろうに付、立帰りに相成りそうろう後に、町奉行参りそうろうと言うなり。早ければこんざつ出来そうろうやと申すなり。
此の節三十両遣し、持ち行きそうろうと言うなり。又二百両遣わしそうろう処、取らず返し、この後に参りそうろうと申す書付を置き、帰りしとも言う者これあり。
この佐野屋孝兵衛は江戸・宇都宮を舞台に活躍した豪商菊池教中の通称であるが、教中は文久二年五月に、義兄の大橋訥庵らと幕府老中安藤信正の暗殺を企てて捕えられ(坂下門事件)、同年八月に獄死している。佐野屋はこうした苦況の際に水戸藩尊攘派の浪人に軍用金の拠出を求められたのである。浪人の集団は、上着の下に鎖かたびらをつけ、鉄砲を携行していた。宇都宮藩の町奉行らが駆け付けた時には、水戸藩尊攘派の浪人らは軍用金の調達に成功して引き揚げたあとだった。なお宇都宮藩では、水戸の浪人対策のために公用人馬の徴発があいつぎ、宇都宮の町役人がその確保に苦労していた(史料編Ⅱ・八一一頁)。
1図 文久3年5月「水戸天狗党浪人が宇都宮佐野屋に軍用金を強要した風聞書」