水戸藩の尊攘派のなかでも、藤田小四郎・田丸稲之衛門らが率いる激派は天狗党とよばれた。彼らは文久三年(一八六三)ごろから攘夷の実行をとなえ、水戸藩領南部の郷校を拠点に活動し、元治元年(一八六四)三月二十七日、百数十名が筑波山に挙兵した。天狗党は彼らの挙兵の意図を関東各地に知らせ、関東諸藩の同調を得ようとして、徳川家康を祭る日光東照宮へ大挙して参拝に出かけた。天狗党はまず宇都宮城下での宿泊と東照宮への参拝の便宜を得るために、宇都宮藩の家老県信緝に交渉した。山稜修復を実践して、尊王の志が厚いと思われていた宇都宮藩は、一方では幕府の意向や日光奉行の立場を考慮して、天狗党には少人数による参拝の許容を日光奉行にあっせんした。四月、日光東照宮への参拝を終えた天狗党は、下野国都賀郡の太平山にしばらく滞在し、六月に筑波山にもどった。天狗党が筑波山にもどった時には隊員は七百人に達していた。このため隊員の武器や衣食を確保するために巨額の資金が必要になり、近辺の町村の役人や富商・豪農への強要に頼ったため、天狗党の評判は急速に悪くなった。ことに天狗党との意見の違いから飛び出した田中愿蔵らが、六月六日軍用金の拠出を拒んだ栃木町(栃木市)を焼き打ちし、六月二十一日水戸街道の真鍋村(土浦市)を襲い、家屋に火をかけ金銀を奪ったことが、これに輪をかけた(『水戸市史』中巻(五)、一九九〇年)。
筑波山に戻った天狗党は、鎮圧に出動した幕府軍と戦闘を交えた後、水戸に向い、那珂湊に集結した。同年九月幕府諸藩と水戸藩諸生派が那珂湊に集結した天狗党、武田耕雲斎が率いる尊攘派鎮派、松平頼徳(水戸の支藩宍戸藩主)が率いる大発勢に攻撃を開始した。この戦争に敗れた天狗党と武田軍は北方へ逃れ、十月末日に常陸国久慈郡大子(茨城県大子町)に集結後、武田耕雲斎を主将とし、藤田小四郎・田丸稲之衛門を副将として、京都へむけて西上を開始した。
元治元年(一八六四)九月十四日付けで、水戸藩尊攘派に対する追討戦に従軍した宇都宮藩士(氏名不明)が、那珂湊戦争後の戦闘と宇都宮帰陣後の様子を伝える書簡がある。それによると、宇都宮藩は幕府に追討を命じられ、二隊が出動し、九月七日に常陸国那珂郡向山村(茨城県那珂町)浄福寺の門前で砲撃戦となり、相手側に百五十人位の戦死者を出させて勝利した。ただ刀で渡り合う場面がなく、敵の首級を得られなかったのは残念である。味方に五名ほどの負傷を出した。九日昼すぎに那珂郡田彦村(ひたちなか市)で敵方の攻撃をうけ、砲撃戦で反撃し、相手側にさらに八、九十人の戦死者を出させた。宇都宮藩軍は戦死十二名、負傷五名を出した。幕府から常野追討軍総括に任命された田沼意尊(遠江国相良藩主)の指揮がなく、宇都宮藩軍だけが前線に出て戦うことになり、死傷者を多数出す結果となった。十三日に一応宇都宮に帰陣したが、今月中に再度出動する予定である。合戦の模様は筆紙に表しがたいので、いずれお話ししたい。ただ水戸藩尊攘派軍は浮浪の集団ではなく、武田伊賀守(耕雲斎)を首領とし、山国喜八郎を軍師としている。藩の戦死者の遺骸は水戸の寺に埋葬し、彼らの衣類・道具を持ち帰って藩主に見せた上で、各遺族宅へおくった。以上が従軍藩士の手紙の要約である(史料編Ⅱ・八一二頁)。
相手側の戦死者の数は、推定にしても過大で、当時の各記録でも、宇都宮藩兵の大敗と水戸藩尊攘派の軽微な損害が伝えられている。宇都宮藩側の死傷者は、氏名や身分が示されており、ほぼ正確と見られる。宇都宮藩は日光にむかう天狗党との交渉に応じたことにより、幕府から疑いをかけられており、それだけに那珂湊戦争では最前線に討って出ざるをえず、かなりの戦死者や負傷者を出したのである。