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西上軍の下野横断

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 那珂湊戦争で幕府軍の総攻撃をうけて敗退した天狗党と武田耕雲斎軍は、追撃する幕府軍と戦闘しながら北へ逃れ、常陸北部の大子に集結した。ここで武田耕雲斎を首領として、当時京都にいた禁裏守衛総督一橋慶喜(徳川斉昭の息子)を頼って西上を開始したのは、十一月一日である。その総勢は一千人におよぶ大部隊であった。西上軍は野州北東部に入り、一日那須郡川上村(黒羽町)、二日同郡河原村(同町)、伊王野・芦野宿(那須町)をへて、三日越堀・鍋掛両宿(黒磯市)、四日那須郡高久村(那須町)、大田原・矢板をへて、五日塩谷郡川崎村(川崎反町、矢板市)、六日河内郡小林村(今市市)、日光街道徳次郎宿を避け、その北側を通って、河内郡新里・多気両村(宇都宮市)をへて、七日鹿沼宿(鹿沼市)、八日都賀郡大柿村(都賀町)、九日同郡葛生村(葛生町)、渡良瀬川を渡って十日梁田宿(足利市)、十一日に上州太田宿(太田市)と宿泊した様子である。この間黒羽藩兵と小競り合いがあった他は、戦闘はなかった。また西上軍が高根沢町域を通過することもなかった。しかし、次項で見るように、上高根沢組合村では西上軍の侵入を警戒して、給部村に見張所を設置するとともに、街道や山野の警戒につとめた。
 ところで西上軍の実態は、十一月六日に宿泊した小林村に記録が残されているので、その一端を見ておこう。小林村上郷組の記録では、この日板蔵(郷蔵か)の造築がほぼなり、明日の上棟式にそなえて近隣の者があつまり餅をつき、それも終わりに近付いた時に、突如鬼怒川の対岸に浮浪人(西上軍)が現れたので、近隣の者は皆逃げ去ったという。同村下郷組の記録では、水府浪人たちが多人数で通りかかり、百姓家ばかりでなく、隠居・雨小屋などに強引に泊まり込んだという。この日小林村に泊まった西上軍の総数は、千七十六人と馬百六十九匹に達した。村ではこの多数の人馬のために、白米・籾・味噌・酒・大豆・刈豆などを提供させられた。この賄いに対する代価の支払いは、泊まった家ごとに、個々の浪士集団の判断に任されたらしく、心もち程度や無払いの場合も多かった。なお西上軍が立ち去ったあとの調査では、宿泊した家から多数の物品が紛失したり、逆に破損した武器類や着古した衣類、それに老馬二匹が捨て置かれたという。また日光街道徳次郎宿か例幣使街道鹿沼宿まで、かなりの人馬が徴発されている。村高千四百七十六石、戸数九十三戸(天保期)、戸口百二十一戸・八百二十三人(明治八年)の同村にとって(『角川日本地名大辞典・栃木県』角川書店、一九八四年)、一泊とはいえ一千人を越える武装集団を迎えたことは、大変な困難であった。
 ところで小林村下郷の組頭粂蔵宅には、西上軍三十人と馬三匹が泊まったが、三十人のうちに六人の女性が含まれていた。西上軍が越前の新保に到着した時に、二人ほどの女性が参加しており、その一人は五十~六十歳、他の一人は三十歳位で三歳位の子供を連れていたという。小林村に泊まった六人の中に、この二人が含まれていたことと思われる。これらの女性は、挙兵に参加した水戸藩士の家族なのか、あるいは尊攘運動に共鳴した農村出身の志士の家族なのか、明らかでない。ただ年配の女性については、常陸国茨城郡川又村(現水戸市)の市毛荘七妻美与(一説に美恵)とする記録がある。彼女は夫荘七・倅源七とともに水戸に護送され、夫と倅は獄死し、彼女は獄中で病気になり、家に戻されて元治二年九月に六十二歳(一説に六十歳)で死んだという。群馬県吉井町郷土資料館所蔵の「天狗勢西上行列絵図」のなかに、「義勇隊」の旗印に続いて、四人の女性の姿が見られる。そのうち三人は、丸笠と杖をもった比較的若い女性で、他の一人は尼僧の姿で馬に乗る年配の女性である。やがて峠の死闘、雪中の行軍、さらに壮絶な悲劇に直面する西上軍に、少数ながらこうした女性が参加していたことは印象的である(河内八郎「野州における天狗党争乱(続)―元治元年一一月の通過をめぐる問題―」『栃木史心会会報』第一八号、一九八六年)。
 なお武田耕雲斎ら西上軍は、元治元年十一月中旬以降、上野・信濃・美濃をへて越前に達したが、頼りにしていた一橋慶喜が軍をひきいて鎮圧に出動したことを知って降伏し、翌年二月その多くが敦賀で処刑されたことはよく知られている。

2図 水戸藩尊攘派西上軍の進路(『水戸市史』中巻(五)、1990年)


3図 天狗勢西上行列絵図(部分)(群馬県吉井町郷土資料館所蔵、『茨城県史』近世編、1985年)