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高根沢周辺の警戒体制

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4図 「元治元年中浮浪賊徒追討の見張所諸雑用書上帳」(県立文書館寄託 綱川文太家文書)

 水戸藩天狗党が野州太平山から筑波山に戻ったのが元治元年(一八六四)五月末日で、六月半ばに幕府は関東諸藩に出動を命じ、軍事討伐にむかう。常陸・下総・下野の各地に天狗党が出没し、幕府軍と戦闘が始まる可能性がたかまってきた。こうした情勢をうけて、真岡代官所の指令により、上高根沢村をふくむ組合村では、天狗党の侵入を監視する見張所を芳賀郡給部村に設置した。見張所の設置場所を給部村に決めたのは、おそらく筑波山方面から部隊が北上する場合、真岡・益子をへて辰街道を利用する可能性が高いと判断したのであろう。慶応元年(一八六五)四月に組合村の小惣代給部村源次右衛門より大惣代宇津権右衛門あての「大惣代宇津権右衛門方へ差出候控」によると、この見張所の経費は、七月一日より十一月二十八日までで、少なくとも金十四両三分余に達している。経費のなかでも多いのは、人足八百八十一人に支給した昼食のおかず代で、銭六十六貫余である(銭相場金一両につき銭六貫六百文)。他に銭一貫以上かかったものは、灯油代・ろうそく代・手先衆賄い代・焰硝(火薬)代・弾丸用なまり代・障子こしらえ代等である(史料編Ⅱ・八一四頁)。組合村は十一月いっぱいで見張所を廃止した様子であるが、これは天狗党に武田耕雲斎軍が加わった西上軍が野州を横断して、十一月半ばに信州に入ったため、当面の危機が去ったと判断したためであろう。
 亀梨村の「元治元年子七月より、真岡鉄砲人足詰、外ニ茂木町人詰覚帳」(亀梨 鈴木重良家文書)も、元治元年の水戸天狗党の侵入を警戒して、村々から動員された様子を伝えている。まず七月十六日から二十八日まで、真岡に柏崎・亀梨両村から鉄砲打ち四人と惣代才領一人が出動している。この時期は天狗党が筑波山を拠点に、常陸西部と下総北部に出撃し、幕府追討軍を敗走させた直後で、各地に天狗党の侵入への緊張がたかまっていた。ついで同年十一月八日に芳賀郡茂木町に、柏崎村から人足六人、亀梨村から才領一人・人足三人の合計十人が動員されている。この時の近辺の村々の動員は次の通りであった。
 
  上稲毛田十五人・下柏崎村二十人・八ヶ代村二十人・台新田三十人・桑久保村二十五人・下稲毛田五十人・平田組三十人・太田三十五人・西根組六十人、合計二百八十五人
 
 この人数は延べ人数かもしれないが、当時の各村の戸数からみても相当な動員数といえよう。十一月十四日には曲畑村(南那須町)に柏崎村から人足三人・馬二疋、亀梨村から人足一人・馬二疋が詰めている。この時期は那珂湊から敗走した天狗党や武田耕雲斎軍が、常陸国久慈郡大子で再結集をはかって、下野への移動を開始した時期であり、下野東北部の緊張がたかまっていた。ともあれこうした農民の動員にかかる費用は、ほとんど村々に高割りでかかってきたのである。
 下柏崎村でも元治元年に、天狗党の侵入を警戒する見張り役や奥州街道氏家宿の代助郷の負担で苦しんだ。同村の領主(旗本福原氏)は文久二年(一八六二)の暮れから年貢米を一俵につき三升増加する政策を打ち出していたが、同村では違作を理由に同三年には三升増米の延期と年貢の一割減免をかちとっていたが、元治元年十月にも上記の天狗党見張り役や氏家宿代助郷を強調して、三升増米の実施を翌年まで延期するよう要求している(下柏崎 鈴木康之家文書)。」
 なお元治元年(一八六四)の水戸藩天狗党の争乱に際し、上高根沢村の宇津権右衛門らが幕府の真岡代官所に醵金し、代官所役人から慶応二年(一八六六)五月に受取り書を交付されている。この受取り書によると、上高根沢村の宇津権右衛門と下高根沢村の名主(斎藤)十内は、真岡陣屋警衛入用の一部として、金二十五両と金百両を慶応二年五月に差し出している(史料編Ⅱ・八一六頁)。この宇津権右衛門と斎藤十内について、醵金の分担割合がわからない。この醵金に関しては、受取り書の他に、同年五月付け宇津権右衛門あての申し渡し書があり、そこでは「去々子年(元治元年)野州辺集屯の賊徒騒乱の節、当陣屋より出張、最寄御料・私領とも、鎮撫方取り計らいそうろうに付、右警衛入用の内へ差出し金相願いそうろう段、奇特の儀に付」とある。この申し渡し書によると、斎藤十内よりも宇津権右衛門の方が醵金により積極的だったらしく、真岡代官所は醵金の受納に応じることと、宇津の醵金申し出を幕府老中水野和泉守忠精に報告している(史料編Ⅱ・八一六頁)。