安政六年(一八五九)四月、東高谷村の瀬平が関俣村地蔵寺の旦頭(檀家総代)の常三郎らから宗掟(宗門の規定)に違反していると地蔵寺の本山である宇都宮の成高寺に訴えられた。この訴えには、瀬平の分地百姓である三郎右衛門ら五名の口上書が添えられていた。瀬平が宗掟に違反したとされるのは、一、瀬平の組下百姓浅右衛門が先年死去した際、同人が困窮していて通例の布施が出せないので、浅右衛門(の遺族)から金二分を寺に出させて決着をつけたこと、二、瀬平自身、七年以前から旦那寺への年頭の直参をせず、代人を差し出していたこと、三、瀬平が自家の仏壇・阿弥陀仏・先祖の位牌などを修復した際に、僧侶を招いての開眼供養をしなかったこと、四、瀬平自身、七年以前に孫が生まれて間もなく死亡した際に、菩提所(旦那寺)に届け出ずに始末したことである。この訴えにより瀬平は本山に呼び出されて追及され、扱い人の仲介で地蔵寺と本山に詫びを入れ、今後宗掟を厳守し、地蔵寺の担役(檀家としての任務)に違背しないことを誓って許されている(平田 鈴木 順家文書)。近世社会では、宗門制度のため、人は必ずいずれかの寺院の檀家となり、キリシタンやその他の邪宗の信者でないことを証明してもらう必要があった。しかし、この事件ではそうした規制を軽視した者への寺院側からのしめつけがあったことを明示している。
なおこの一件のなかで、地蔵寺に呼び出された瀬平の分地百姓である三郎右衛門ら五名が尋問され、前記二~四の事実を証明する口上書を地蔵寺に提出したが、同年五月にこの五名は、地蔵寺のきびしい追及に屈してしまったことを本家である瀬平に対して詫び、一札を出している(平田 鈴木 順家文書)。
5図 瀬平の分地百姓が地蔵寺に提出した口上書の写(安政6年4月カ)(平田 鈴木 順家文書)