同年二月、前記の小前百姓治(次)右衛門の頭百姓格への昇格問題は、小前百姓らの強い反対にあい、平田村の源兵衛・仁平ら扱い人の仲裁によって、葬儀や婚礼の儀式の際、小前百姓も紋付羽織を着用できるようにするなどの村方郷例の改定で一応解決した。ところが同年六月、決着がついた筈の小前百姓治(次)右衛門の頭百姓格昇格問題が、村内の葬儀の準備をめぐる頭百姓と小前百姓の対立から再燃した。この時の対立は、頭百姓で組頭の源之助(番号二七、文久二年(一八六二)に六十歳、高十二石八斗六升五合、八人暮し)が死亡し、その葬儀の準備を小前百姓が手伝うことを拒み、その理由として小前百姓は、治(次)右衛門が頭百姓格に昇格する際に村方に差し出した助成金が、頭百姓の間にだけ配分されたことへの不満をあげた。ふたたび平田村の源兵衛・仁平(兵衛)ら、他村の扱い人の仲裁によって、葬儀の際小前百姓の喪主は式服にかみしもを着用できるようにするなどの村方郷例の再改訂と、治(次)右衛門が村方に差し出した助成金の半額を小前百姓に配分することで解決した。幕末の段階で、富んだ一部の小前百姓を取り込みながら、頭百姓制の維持をはかろうとする頭百姓側と、婚礼や葬儀での差別を少なくしようとする小前百姓側との対立が明らかになっている(史料編Ⅱ・八二七~八三一頁)。
慶応三年十一月、前高谷村の分地百姓源左衛門(番号一七、文久二年に泰助二十八歳、高三十三石四升九合、七人暮し、父の源左衛門四十八歳)が焼失した長屋門の建て替えに際し、以前より立派にしたために村方と対立した件につき、領主の旗本が示談を命じた。そこで寺渡戸村年寄藤右衛門らが扱い人になり、背がい(軒ひさしか)の表側だけを板張りにするなど、長屋門の構造を細かく規定して、源左衛門がそれを守ることと、同人が村へ十五両を醵金することで解決している(史料編Ⅱ・八三三頁)。この事件にも、村内での頭百姓と小前百姓(前述のようにその多くは分地百姓)の対立が表面化しており、当事者の源左衛門は、村内で最高クラスの持高をもつ新興勢力であった。
6図 高根沢町域での長屋門の例
前高谷(花岡)に残る小林栄治家の長屋門