慶応二年(一八六六)正月二十三日の夜のことである。前高谷村の菊蔵の娘きしが突然いなくなってしまい、菊蔵とその家族があちらこちら心当たりをたずねたが見つからなかった。実はきしは同村の久助との間で、前年二月から仲人を介して縁談がおこり、十二月二十一日に婚約が成立し、年が明けたら二月に婚礼を挙げる手筈になっていた。ただ同じ村内の縁組にしては婚約や婚礼までに日数がかかりすぎており、「済口証文」に「追々延引に相成り居り」という文言がみられ、きし自身がこの縁談に乗り気でなかった様子がうかがわれる。菊蔵は組頭金三郎(仲人か)を通して久助に詫びを入れ、樽料一両を届けて決着をつけた。
ところがきしは亀之介という男とともに、下総国豊田郡沖新田村(茨城県水海道市)の留兵衛家に奉公していることがわかり、二月二十六日に金三郎らが出向いて両人を引き取ってきた。亀之介の兄と思われる紋助と菊蔵の間で話がまとまり、紋助から菊蔵に結納金として七両を贈り、きしを亀之介の女房にすることになった。これを知って納まらないのが久助である。婚約者を勝手に誘い出した弟の女房にするとは納得できないと、紋助に抗議を申し入れ、さらに領主への訴訟も辞さないと言い出したのである。村の主立ち人が仲裁にはいり、菊蔵も二度ほど慰謝料を久助に払い、ようやく亀之介が久助に詫び状を差し出すことで決着し、亀之介ときしは晴れて夫婦となることができた(史料編Ⅱ・八三一頁)。
なお前高谷村での当事者の年齢・持高・家族数(文久二年当時、慶応二年の四年前)などを文久二年三月「前高谷村宗門人別御改書上下帳」(鈴木 徳家文書)(1表)で検出してみた。きしは分地百姓菊蔵(番号一二)五十六歳、高六石二斗二升、八人暮しの娘きつ十六歳らしい。婚約者久助は、分地百姓繁蔵(番号三三)五十五歳、高九石九斗五升、十一人暮しの弟で二十四歳である。きしの恋人亀之介は、百姓紋蔵(番号三一)三十六歳、高五石五斗二升、八人暮しの弟亀之助十八歳らしい。いずれも持高は村内で中の下クラスの住民である。組頭金三郎は村内の別の組に属するようで、宗門人別帳には出ていない。