明治二年(一八六九)亀梨村名主七郎右衛門が同村百姓八兵衛に質地の返還を要求している。七郎右衛門の主張によると、八兵衛に天明年中より下畑二反九畝二十四歩と地付林を四両で質入し、年貢・役銭として毎年金二朱と銭百文を受け取ってきたが、慶応四年(一八六八)四月より官軍の白河詰め軍夫役や氏家宿助郷役が課せられ、八兵衛に質地にかかる分として金一両の負担をもとめたところ、毎年足役銭として銭四十八文を負担しているので、それ以外の役銭の負担には一切応じられないといわれた。他に同人へ渡してある質地に上畑七畝六歩があるが、こちらについては八兵衛が年貢・役銭を一切負担していないのでその理由を問いただしたところ、八兵衛の答は七郎右衛門の先祖に金一分を用立てたことがあり、その利息としてこの土地の年貢・役銭を七郎右衛門側が負担する約束になっているという。そこで七郎右衛門はその証拠となる証文の提示をもとめたが、八兵衛はこれにも応じなかった。そこで七郎右衛門は今後いかなる役銭の増加もありうるので、これらの質地の返還をもとめたが、八兵衛はこれにも応じないので、支配旗本本多駒之助の代官鈴木久左衛門に質地返還の訴訟を起こすにいたったのである。この訴訟がどう決着したかはわからないが、八兵衛の態度には、幕末の世直しを身近に経験したかと思われるふてぶてしさが感じられる。ただ戊辰戦争の最中に、亀梨村は上柏崎村とともに、官軍御用として高二百十六石に対して夫人足三人を白河駅に出している。こうした臨時の夫役や役銭は、その他にいろいろ課せられたものと推測される(史料編Ⅱ・八三五頁)。