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村々の治安強化

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 慶応四年(一八六八)四月、野州各地に世直し一揆が拡大し、高根沢町域にも波及するが、その前年慶応三年五月に、真岡代官所は野州芳賀・塩谷・那須の各郡に、村々の治安取り締りを強化するよう指示している。この指示は五月二十八日に悪党が横行したので、真岡代官所の役人が出動して手配したことをうけて出されたもので、五月二十九日に組合村の惣代が次のように代官所役人の指示を村々へ廻状で知らせている。
 その指示は、元治元年(一八六四)水戸天狗党の接近が予想された時の警備体制に準じたものである。すなわち今後何か大事が起こった時は、組合村ごとに盤木(合図や警報のためたたき鳴らす板)・半鐘(小形の釣り鐘)の合図で馳せ集まること、また地元の富裕な家には、村人がわかれて警備にあたり、騒動が終了した後で、地元の富裕な家などの協力をうけ、警備にあたった村人に褒美が与えられる様にする。また村によっては、盤木・半鐘が壊れていて、急の召集に役にたたないことを指摘し、すぐ修理するように命じている。
 なお組合村は文政期に結成され、六、七か村の小組合をあわせて、五、六十か村の大組合を構成していたが、小組合の構成が必ずしも地域の実情にあっていなかった。そこで慶応三年五月、これまで福岡村(南那須町)小組合に属していた中柏崎村両組(町域)と曲畑村(南那須町)が、給部村(芳賀町)の小組合に入ることになった。この小組合の旧来のメンバーは、給部村のほか、大谷津村・椎貝村(市貝町)、稲毛田村・上稲毛田村(芳賀町)である。こうして、世直し一揆の起こる前年から、組合村の一部再編成や騒動発生時の対策が取り決められていたのである(史料編Ⅱ・八一七頁)。