慶応四年四月上旬の野州世直し一揆は、宇都宮周辺の一揆と真岡・芳賀地方の一揆が平行して発生し、拡大している。前者は三月二十九日に日光御成道の安塚村に発生し、翌晦日例幣使街道の楡木宿辺に波及した。一揆勢は翌四月一日から二日にかけて、宇都宮の東郊外の村々を打毀し、鶴田村に結集している。この時鬼怒川東岸の芳賀郡鐺山村・柳林村に一揆が波及している。鶴田村に結集した農民五千人余は、要求内容や実現方法を調整し、宇都宮へ侵入した。四月三日夜宇都宮の八幡山に結集した一揆勢一万人ないし三万人余は、宇都宮城付近で藩兵と衝突して退散し、以後北上した一揆勢は奥州街道白沢宿の打毀し後、二手に分かれている。一手は鬼怒川を越えて氏家宿と隣接の桜野村に侵入し、さらに四日塩谷郡大宮村・玉生村を打毀した後、反転して肘内村で宇都宮藩兵の鎮圧にあって四散している。他の一手の方が一揆勢の主流で、日光街道徳次郎宿を襲い、その後鹿沼宿に向ったが、鹿沼宿北端の御成橋で宇都宮藩兵の鎮圧にあっている。御成橋で宇都宮藩兵に銃撃された一揆勢は、例幣使街道を北上して日光神領文挟宿を襲い、さらに板橋宿に向うが日光神領の役人の阻止にあい、板荷村に結集後解散している。なお安塚村に発生した一揆勢の主流は、参加者を増大させながら宇都宮へ向ったが、一揆勢の一部は西へ進み、楡木宿をへて鹿沼南方の村々に侵入した。この一揆勢は四日塩山村に結集し、油田村や口粟野村を襲撃した後、山間の粕尾村で解散している。以上は一揆勢の動きを概観したもので、この他の地域にも一揆が飛び火的に発生したり、一揆の終息後に村ごとに世直しの要求を実現しようとする村方騒動が起っている(『栃木県史』通史編・近世二)。
一方、真岡・芳賀地方の一揆は、四月四日夜、真岡三町の激しい打毀しから始まった。真岡では十八軒が打毀され、真岡代官所も攻撃対象となった。その後一揆は東方と北方の村々に波及した。東方では、一揆勢は五日山本村に侵入し、六日七井村へ向った。北方の村々では五日に打毀しが発生し、一揆勢は六日に東水沼村・祖母井村・下高根沢村に侵入し、七日に上延生村・八ツ木村など芳賀郡北端の村々や塩谷郡栗ケ島村・太田村などに侵入している。現高根沢町域での世直し一揆は、八日にほぼ終息したとみられる。なお十日に奥州街道氏家宿と馬場村・桜野村に打毀しが発生している。真岡・芳賀地方の世直し一揆の要求は、質地・質物の無償返還や貸付金の帳消しか半減の他、生活困難を救済するための金穀の拠出で、こうした要求を受け入れて誓約書を一揆勢の頭取に提出した地主・豪農は、「降参」したものとして打毀しを免れた。
ところで、芳賀郡給部村(現芳賀町)の綱川家に、四月四日付、半左衛門よりの書簡が残されている。この書簡は野州各地を吹き荒れた世直し一揆の生々しい様子を伝えている。ちなみにこの書簡の筆者半左衛門は、綱川家から鬼怒川東岸の道場宿(宇都宮市)の河岸問屋に養子に入った、綱川源次右衛門の実弟である。書簡の前半は宇都宮周辺の状況、すなわち打毀しや一揆勢の様子と、大砲を持ち出して鎮圧に向う宇都宮藩兵の様子を伝えている。またすでに鬼怒川東岸の鐺山村・籠谷村・大谷高根沢村に一揆が波及し、竹下村に参加を働きかけているので、給部村や上高根沢村などへの波及は時間の問題だとし、書類などはかたずけ、現金を手元に置かないようにしたほうがよいと言っている。宇都宮周辺の打毀しの例からみて、宇津権右衛門家とも連絡して、組合三十三カ村ではすでに商品の値下げをしたので一揆勢のおいでは無用といんぎんに断るとよいと忠告している。しかし、金や米を貯えている家々から米金の施しを実施しなければ騒動は終息しないだろうととも付け加えている(史料編Ⅱ・八一八頁)。
上高根沢村でも四月五日付けで、組合村大惣代の宇津権右衛門が、近辺への世直し一揆の波及を懸念して、組合の各村役人に、村内で質屋や酒屋を営む有力商人をつれて、各村一、二人の役人が、また組合小惣代は全員が、四月七日四ツ時(午前十時)に上高根沢村の宇津家へ参集するよう求めた廻状を寺渡戸村(町域)からはじめて、組合村(十八か村)に出している。しかし、この廻状か給部村(芳賀町)の綱川家(組合小惣代)に届いた時に、世直し一揆がこの地域に及んだらしく、この廻状は給部村以下七か村の村名の下に「印」が捺されないまま、綱川家に長く伝えられることになった。世直し一揆の波及が豪農や村役人の予想以上に早かったのである(史料編Ⅱ・八二〇頁)。