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高根沢への波及

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 世直し一揆は、芳賀郡を北上し、塩谷郡南部や那須郡南部の村々に及んだが、一揆勢の農民は、各村の富裕な地主や商人に米や金の拠出をもとめ、商人の場合には取り扱い商品の値下げを要求した。一揆勢の要求を受け入れた地主や商人は「降参」したものとして、家屋の打毀しを免れている。芳賀郡北部から塩谷郡にかけて、一揆勢の攻撃目標とされた家々の書き上げが伝えられているので、その内容を見てみよう(史料編Ⅱ・八二二頁)。
  氷室村(宇都宮市)の氷室新右衛門、下高根沢村(芳賀町)の斎藤十内、姥ケ井(祖母井村、芳賀町)の町田久右衛門・天満屋利右衛門・横堀孫右衛門・杉田勘左衛門・宮川屋、「降参」の糸屋半兵衛・奥州屋仙次。上高根沢村(町域)迎戸の「降参金千両・米千俵」の阿久津半之助・日野屋(酒造、外池家)、同村西根の「降参金千両・米千俵」の宇津権右衛門・辰巳屋(字津家の酒屋の屋号)、般若塚(芳志戸村、芳賀町)の「降参金七百両・米五百俵」の黒崎治部右衛門・天満屋(黒崎家の酒屋の屋号)、八ツ木村(芳賀町)の小堀庄兵衛、栗ケ島村(町域)の矢野九平、太田村(町域)の見目清左衛門・久右衛門、給部村(芳賀町)の「降参金百両・米百俵居村へ差出」の綱川源次右衛門、中柏崎村(町域)の「降参金弐百両・米弐百俵」の矢口長右衛門、梶内(下高根沢村、芳賀町)の「降参米百俵・金百両」の螺良源右衛門、日下田(下高根沢村ヵ、芳賀町)の「降参米百俵・金百両」の黒崎太左衛門。
 以上のうち、「降参」と明示されていない地主・商人は、一揆勢の要求を拒んだため、打毀しをうけたことが、他の史料からも判明する。右の書き上げのなかで、「降参金百両、米百俵居村へ差出、綱川源次右衛門」と記されていることを裏付ける文書が二通残されており、その一通には、「差出し申す一札の事、一金百両、一米百俵、右は今般御趣意に付、差出し降参仕りそうろう処、実正に御座そうろう、念のため一札差出し申す処、よってくだんの如し、辰四月七日、給部村源次右衛門印、御一同衆中」とある。
 もう一通には、「覚、一金百両、一米百俵、右の通り当村へ差出しそうろう処、相違御座なくそうろう、この段御披露申し上げたてまつりそうろう、以上、七日、給部村源次右衛門、誠右衛門・団次郎・左右輔」とある。もっとも後者の宛名の誠右衛門ら三人の名は、幕末・維新期の給部村宗門人別帳には見当らないので、他村から押し寄せた一揆勢の頭取と見られる。文面も居村の農民への米金の拠出を知らせるものである。また源次右衛門の押印がある前者も押印のない後者も、現在綱川家に保存されているが、このことはこの一札と覚が世直し一揆の終息後に同家によって取り戻されたか、作成されたものの一揆勢に渡されなかったことを示している(史料編Ⅱ・八二三頁)。