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太田村の打毀し

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 前述の一揆勢の攻撃目標とされた家々の書き上げ(史料編Ⅱ・八二二頁)に、塩谷郡太田村の見目清左衛門・久右衛門、同郡栗ケ島村の矢野九平が打毀しにあったように記されていた。まず太田村の実情は、慶応四年七月に野州塩谷郡太田村名主清左衛門から知県事御役所に提出された願書の控え(太田 見目清三家文書)によると次のようである。
 太田村名主清左衛門の土蔵には、栗ケ島村の年貢米の一部が真岡代官所の手代吉良八郎(二宮尊徳の弟子)扱いの仕法米として預けられていた。仕法米とは米価の動きをみて順次換金し、代官所の資金運用に役立てようとするものであろう。慶応四年春には土蔵のなかに三十一俵一斗一升の預かり米があった。この預かり米を土蔵に積み置いていたところ、四月に一揆勢が押し掛けてきて(「悪徒共押参り」)、居宅や土蔵を打毀し、米をすべて庭前に持ち出した。彼らは米俵を切りさき、米に火をかけたり、米を投げ散らしたりした。折から雨が降りだしたので、投げ散らした米をさらに泥の中に踏み込み、乱暴の限りをした。彼らが立ち去った後、貴重な米が無駄になるのがもったいなく思い、少しでも役にたつように、泥にまみれた米を集め、扇をつかって米を選び出そうとしたが、砂石がまじって砕け米になっており、とても正米にもどすことはできなかった。これは挽き粉にでもして、食用の補いにあてるほかはないと思われるが、この実情をお届けするというのである。
 なお知県事役所とは、太田村が幕領で真岡代官所の管轄であったことから、慶応四年六月に佐賀藩士鍋島道太郎を知県事として発足した真岡知県事の宇都宮城内の仮庁舎をさすものと思われる。この一揆勢は村外や郡外から押し寄せてきたものか、村民の一部も加わっていたものか不明だが、こうした激しい行動には、清左衛門家にたいする特別な思いがあったのであろうか。
 また慶応四年七月付け、栗ケ島村名主見習九兵衛ほか四名の村役人から太田村郡中惣代清左衛門あてに出された一札がある(太田 見目清三家文書)。これによると、栗ケ島村では文久元年(一八六一)に凶年対策として備え籾を村からの十俵に、清左衛門からの十俵を加えて、郷蔵に貯えておいた。ところが当年は春以来戦乱などによる村民の出費がかさみ、ことに困窮者は生活に行き詰まり、郷蔵の備え籾に手をつけてしまった。村役人も緊迫した事情に迫られて、四十俵あまりの備え籾を村民に貸し与えた。このたび支配が代わり(幕府から天朝へ)、どのような処置か取られるか予想できないが、四十俵余の米籾だけは村役人の責任で積み戻し、郡中惣代には迷惑をかけないようにするというのである。
 栗ケ島村の場合、備え籾の放出に村役人がどの程度かかわったかは不明であるが、村民が世直し一揆にまきこまれるのを防止するために、郷蔵の開放を黙認または追認したのであろう。なお名主見習九兵衛と矢野九平は同じ家であろう。同村も幕領で、清左衛門は太田村の名主と塩谷郡幕領の取締役をかねていた。
 以上の二事例は、高根沢町域での世直し一揆の実情を示すものであるが、太田村に関しては、慶応四年四月以前に、村内に名主の年貢・諸役の勘定・徴収をめぐって、異議を申し立てる人々がいた。これには慶応三年十二月朔日付、太田村百姓十七名惣代百姓代儀兵衛ら四名より山内源七郎様真岡御役所あての「御利解願」、同四年正月付、「日記覚書、野州塩谷郡太田村」などの関係史料があるが、ここでは明治五年(一八七二)付、第五大区壱ノ小区塩谷郡太田村小前何人惣代何之誰より宇都宮県御役所にあてられた「以書付奉願上侯」(太田 小松石根家文書)によってその経過をみてみよう。
 
  ①この度戸長に任命された見目清作は、父清左衛門の代より名主役を勤めてきたが、名主勤役中の諸書類を惣代や伍長に引渡しも公開もせず、従来どおり年貢・諸夫銭を独善的に割り付け、徴収している。
  ②清左衛門が名主をつとめた万延元年(一八六〇)まで二十年間に名主として米約百五十俵を取込み、今市へ納める年貢米の五里外賃銭を村民に渡さず、また年貢・諸夫銭・村入用の割り付けを独断専行してきたことで、村民が真岡代官所に訴訟しようとしたところ、仲介人がはいり、これまでの独善的な村政をわび、割り付けには組頭や長百姓を立ち合わせ、勘定の正確を期するために諸帳簿を整備することを約束したので、訴訟をとりやめた。しかし、清左衛門は過去にさかのぼって年貢・諸夫銭・村入用の割り付けを勘定しなおすことを拒み、五十両を村方に差し出しただけで、以後も約束を守ろうとしなかった。
  ③明治四年に日光県から田畑改正を命じられたが、清作親子は勝手に田畑の地押しや縄入れを行い、田畑の所持関係を入り狂わせたので、村民が訴訟を用意したところ、仲介人がはいって横領した土地を返させたが、田畑の関係帳簿の修正には今もって応じようとしない。
  ④慶応四年の戊辰戦争の際は、氏家宿の助郷の他、会津・白河・芦野などの諸軍夫がかさなり、その負担を小前百姓は勤めかねる程であった。最寄りの村々の名主は、役引きの特典を無視して人足入用などを負担したが、清作は村高四百五十石のうち、四十石を所持していたにもかかわらず、数度頼んでも人足・才領も勤めず、軍夫も助けてくれなかった。
  ⑤最寄り十五か村は氏家宿の助郷役を人馬請負金を出して済ましてきた。慶応四年四月より十月までの請負金を清作に渡したところ、氏家宿より今期は正人馬で勤めて欲しいといわれそれに応じたが、清作はこの間の請負金の返却にいまだに応じていない。
 
 以上の諸点をあげ、私欲不正のかどで訴訟したいが、当人が戸長なので、伍長や副長に訴状に同調してもらえない。そこで以上の点を列記し、清作を呼び出して吟味してくれるよう箱訴(投書)するというのである。ただし、この願書が実際に箱訴として役所に提出されたものかどうか不明であり、また清左衛門ら名主・戸長側の反論・弁明も不明なので、事実の断定は避けたいが、太田村内での十年近い対立が、慶応四年四月の世直し一揆にともなう打毀しの背景にあったことを確認したい。