この書簡の後半は江戸や宇都宮での戊辰戦争の最新情報である。半左衛門の使用人が各地の情報の収集に奔走しているので、その者が帰宅すれば詳しい情報がわかる筈という。さしあたり彦根藩と大垣藩の部隊が百姓鎮撫の名目で北上し、日光へ向かっている。この部隊は猛勇隊とよばれ、その噂を申す者は手討ちになりかねず、また隠密の者もはいりこんできているという。
世直し一揆は高根沢を席巻して北上し、四月十日の明け方七ツ時(午前四時)頃、奥州街道の塩谷郡氏家宿と隣接する桜野村(現氏家町)に波及した。一揆勢二百人あまりが結集し、氏家では湊屋兵助と馬場村(現氏家町)の煙草屋十助を打毀した。また桜野村で紙屋武平・万屋仙助・万屋重(金カ)助の三軒を打毀している(史料編Ⅱ・八二五頁)。
また組合村大惣代の宇津権右衛門は、四月十三日付けの書簡で、世直し一揆終息後の措置のため関係村々の名主を召集するのに先立ち、組合村小惣代の大島惣次右衛門(手彦子村、現芳賀町)・綱川源次右衛門(給部村、現芳賀町)の来訪をもとめている(史料編Ⅱ・八二五頁)。
こうして世直し一揆が吹き荒れた当地方も、ようやく一時の平安を取り戻した様子であるが、一方では宇都宮城の攻防戦や、今市・日光周辺の旧幕府軍と新政府軍の戦闘が近づいていたのである。五月十八日付けで、長右衛門・藤三より「林煙公」すなわち給部村の綱川源次右衛門あて、世直し一揆の情報を知らせてもらったことの礼状のなかに、「誠に大変のご様子、この上いかようの乱世に相成りそうろうや、はかりがたく心配のしだい」とあるように、人心の安静にはまだ時間が必要だった(史料編Ⅱ・八二六頁)。
7図 慶応3年5月29日付、組合村小惣代源次右衛門の廻状。村々の治安警備体制を具体的に指示している。(県立文書館寄託 綱川文太家文書)
8図 組合村大惣代の宇津権右衛門が4月5日付で出した村役人・有力商人の参集をもとめる廻状。給部村以下の受取印がない。(県立文書館寄託 綱川文太家文書)
9図 世直し一揆の目標となった家々と「降参」の内容(県立文書館寄託 綱川文太家文書)
10図 世直し一揆の鎮静を伝える4月10日付書簡(半左衛門より綱川家宛か)(県立文書館寄託 綱川文太家文書)
11図 慶応4年3~4月野州中央部の打ちこわし
注.長谷川伸三「慶応期野州中央部の農民闘争」(大町雅美・長谷川伸三編著『幕末の農民一揆』雄山閣、1974年)138頁の地図を一部修正した。