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世直し一揆の終息

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 四月四日付けの書簡についで、芳賀・塩谷両郡の世直し一揆が鎮静する過程を伝える四月十日付けの書簡がある。この書簡の筆者と宛名は不明であるが、手跡と内容からみて、四月四日付けと同様に、半左衛門より綱川家にあてたものと思われる(史料編Ⅱ・八二四頁)。これによると、この日までに、高根沢周辺の世直し一揆はほぼ鎮静した様子である。鎮静化を促進したのは、黒羽・大田原両藩の出動で、両藩の部隊は、地主・豪農が米金の拠出を約束した文書(対談書)を所持している者や、約束どおりに金穀を居村に差し出すように催促した者を一揆の頭取とみなすと宣言し、実際に頭取の逮捕に踏み切った。一揆勢は七日に上高根沢村の迎戸原に結集して気勢をあげ、周辺の地主・豪農が降参してくることを待っていた。その場へ出向いた半左衛門は、実家である給部村の綱川家から主人が来ず、綱川家が一揆勢の襲撃を免れがたいので、独断で金百両・米百俵を居村に拠出すると大声で申し立てたので、一揆勢が給部村に押し寄せるのを防止できたという。こうした一揆勢への降参を表明しなかった八ツ木村(現芳賀町)の小堀庄兵衛家は、一揆勢の乱入と打毀しにあったという。半左衛門がいる道場宿村(現宇都宮市)など七か村は、上高根沢村西根の宇津権右衛門より取り締まりの方針が示されたので、鎮静に成功した。この七か村は鎮静組と称することになったという。
 この書簡の後半は江戸や宇都宮での戊辰戦争の最新情報である。半左衛門の使用人が各地の情報の収集に奔走しているので、その者が帰宅すれば詳しい情報がわかる筈という。さしあたり彦根藩と大垣藩の部隊が百姓鎮撫の名目で北上し、日光へ向かっている。この部隊は猛勇隊とよばれ、その噂を申す者は手討ちになりかねず、また隠密の者もはいりこんできているという。
 世直し一揆は高根沢を席巻して北上し、四月十日の明け方七ツ時(午前四時)頃、奥州街道の塩谷郡氏家宿と隣接する桜野村(現氏家町)に波及した。一揆勢二百人あまりが結集し、氏家では湊屋兵助と馬場村(現氏家町)の煙草屋十助を打毀した。また桜野村で紙屋武平・万屋仙助・万屋重(金カ)助の三軒を打毀している(史料編Ⅱ・八二五頁)。
 また組合村大惣代の宇津権右衛門は、四月十三日付けの書簡で、世直し一揆終息後の措置のため関係村々の名主を召集するのに先立ち、組合村小惣代の大島惣次右衛門(手彦子村、現芳賀町)・綱川源次右衛門(給部村、現芳賀町)の来訪をもとめている(史料編Ⅱ・八二五頁)。
 こうして世直し一揆が吹き荒れた当地方も、ようやく一時の平安を取り戻した様子であるが、一方では宇都宮城の攻防戦や、今市・日光周辺の旧幕府軍と新政府軍の戦闘が近づいていたのである。五月十八日付けで、長右衛門・藤三より「林煙公」すなわち給部村の綱川源次右衛門あて、世直し一揆の情報を知らせてもらったことの礼状のなかに、「誠に大変のご様子、この上いかようの乱世に相成りそうろうや、はかりがたく心配のしだい」とあるように、人心の安静にはまだ時間が必要だった(史料編Ⅱ・八二六頁)。

7図 慶応3年5月29日付、組合村小惣代源次右衛門の廻状。村々の治安警備体制を具体的に指示している。(県立文書館寄託 綱川文太家文書)


8図 組合村大惣代の宇津権右衛門が4月5日付で出した村役人・有力商人の参集をもとめる廻状。給部村以下の受取印がない。(県立文書館寄託 綱川文太家文書)


9図 世直し一揆の目標となった家々と「降参」の内容(県立文書館寄託 綱川文太家文書)


10図 世直し一揆の鎮静を伝える4月10日付書簡(半左衛門より綱川家宛か)(県立文書館寄託 綱川文太家文書)


11図 慶応4年3~4月野州中央部の打ちこわし

注.長谷川伸三「慶応期野州中央部の農民闘争」(大町雅美・長谷川伸三編著『幕末の農民一揆』雄山閣、1974年)138頁の地図を一部修正した。