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幕末期の社会不安

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 二六〇有余年、長期政権を維持してきた徳川幕府は嘉永六年(一八五三)のペリー来航以来急速に支配への危機感を高めていった。
 江戸周辺はその二年後の安政二年一〇月二日「安政の大地震」が起こり、危機感はさらにあおられた。その時の状況は「此の災や夜四鼓(一〇時ごろ)に起こり、轟然震動一瞬の間に、府下大半を顚覆し、凡そ城廓、邸第、大廈、高堂と雖も傾頽翻倒せざるはなし」(『水戸藩史料』上編巻十四)といった大惨状で、各藩の江戸屋敷の多くは倒壊した。
 二年後の安政四年には日米修好通商条約が結ばれ、開国にふみきった我が国は、生糸・茶などの輸出の急増による物価騰貴という嵐が民衆の生活を直撃した。政治面では尊皇攘夷運動が高まり、元治元年(一八六四)には水戸天狗党が京都をめざして西上し、下野国にも影響を与え社会不安を増大させた。高根沢周辺でも宇津権右衛門が天狗党騒乱のとき周辺の治安維持のため警備などの費用を一橋藩に提供している(史料編Ⅱ・八一六頁)。
 当時、一橋藩領には新たな動きがみられた。一橋家に仕えていた渋沢栄一は藩の兵力不足を察し、農民を兵士に組み込む農兵募集に力を入れて積極的な活動をしていた。一橋藩領の高根沢陣屋にも農兵募集の連絡があった。奉行連田左馬之助は野州知行所(高根沢陣屋)詰の横井鐐之助あてに元治元年七月七日付で「此度成一郎、篤太夫(渋沢栄一)廻村の際の取調には、是非村高に応じて召連れるよう、人物骨柄、身元たしかなものを選ぶよう」(大山敷太郎著『農兵論』)に連絡している。
 農兵人選にあたっては「西根組一人、迎戸組一人、高田組一人、桑窪村二人、板戸村二人、道場宿村一人を用立てし、渋沢両人の人選をうけるように」と指示があり、八名の候補者があげられ、四名が選ばれている。またそれ以前にも「高田組々頭弥次右衛門、迎戸組百姓粂五郎、農兵西根組量平、民之助、迎戸村政之丞共相詰候事」と五名の者が農兵になっている。かれらは何れも農民の中から心身ともに強壮なものが選ばれ、浪士等の乱暴を防ぐため非常警戒の任にあたった。
 社会不安が増大していた慶応二年(一八六六)には、米価騰貴が原因で全国各地に多数の一揆、打ちこわしが発生して幕末の政治危機は一気に深まっていった。
 野州においても各地に大なり小なり打ちこわしが起こっていた。高根沢に近い矢板付近の川崎反町では慶応三年二月に千人余の農民が参加した御前ケ原事件が発生した。
 真岡代官所は村々の治安取締りを強化するため組合村ごとに「盤木、半鐘を合図に馳集り(一揆、打ちこしの農民を)打取候様」という取り決めをした文書を出させた(史料編Ⅱ・八一七頁)。また、これまで福岡村小組合にあった中柏崎村西組を、最寄りの便利な給部村組合に入るよう体制の組替えも行い、一揆に対する対策が講じられていた。幕末の政治的、社会的危機はいや応なしに高根沢地域にも及んできていた。

図1 渋沢栄一(渋沢青淵記念財団竜門社発行『渋沢栄一伝記資料』別巻第十写真より転載)