宇都宮城をめぐる攻防は北関東支配の雌雄を決する戦いだったので東山道総督府は周辺諸藩、特に直接戦闘にかかわらなかった大田原、黒羽、烏山の諸藩に援兵の派遣を要請していた。高根沢地域は宇都宮藩と喜連川藩領で直接出兵要請をうける藩はなかった。戦闘は県の北西部と、大峠を越してきた北部、三斗小屋の戦などで高根沢地域は戦地からははなれた無風地帯であった。戦争が影を落としているとすれば、烏山藩、黒羽藩の宇都宮援軍が街道を通行した程度ではなかっただろうか。烏山藩は四月一六日参政大久保金吾が宇都宮へ呼び出されて、至急宇都宮へ出兵するよう参謀香川敬三から命ぜられた。一八日には二小隊一六〇人が烏山を出発し宇都宮へ向っている。通路は不明であるが高根沢領内を通過したことは推察される。また、黒羽藩も一九日宇都宮城が幕軍に包囲された時、東山道総督府から出兵要請をうけた。家老渡辺記右衛門は歩兵一小隊、砲一門を引率し宇都宮に向かい、二〇日には氏家宿から白沢宿に到着している。しかし宇都宮城がすでに陥落してしまったので、間もなく黒羽にもどっている(『復古記』十一巻)。黒羽藩兵が奥羽街道を通り、阿久津河岸を通過したことは想像にかたくない。このように高根沢地域は北に南に軍隊の行き交う音が絶えず、否応なしに戦争の気配が色濃く漂っていた。
図3 大鳥圭介(宇都宮市 大町雅美提供)