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白河攻防と軍夫

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 戊辰戦争は江戸開城後、北関東から東北地方へと移っていった。宇都宮の攻防、日光山内の明渡しで幕府軍は会津へと集結していった。
 政府軍が手薄な白河方面へは幕府軍の圧力が強まった。閏四月二三日、白河地方の幕軍は鍋掛、越堀附近まで進出し、対する新政府軍は参謀に伊地治正治をたて薩摩一小隊、長州一小隊を主力に二五〇余人でこれに当たった。戦況ははじめ新政府軍に不利であったが、援軍を得て五月一日白河城を落とすことができた。この戦果は、奥羽諸藩による反新政府の地方政権である奥羽列藩同盟を結成しようとしていた矢先のことであった。
 白河城を奪ったあとも戦況が一挙に新政府側に好転したわけではなく、会津兵の攻撃に苦しんだ新政府軍は白河を維持するため下野各地へ軍夫の派遣を要請した。戦火の渦中からのがれた高根沢地域にも戦争の影響は間接的ながら軍夫(軍隊の食料、荷物運搬などをする雑役夫)派遣という形であらわれた。
 太田村では春以来人馬が徴発されていたが「就中五月中ヨリ芦野、白川両宿エ軍夫仰セ付ケラレ」(史料集Ⅲ・三頁)白河城が新政府支配下に入った早い時点で軍夫の差し出しを命じられている。その後も六月から一〇月ごろまで数多くの農民が派遣された。
 亀梨村では家数一四軒の村で六月一一日から一〇月一一日まで延べ二七六人が白河口へ軍夫として派遣されている。派遣の仕方は一〇日ごとに平均一〇人ずつ派遣するというものである(史料集Ⅲ・八頁)。また、亀梨村の七郎右衛門組は延べ八〇名の軍夫派遣をしている。期日は六月一六日より一〇月二六日までで、まず六月二一日から二九日に九名、七月一日より二九日に一三名、八月一日より晦日まで一五名、九月一日より一三日まで一三名の計五〇名。ついで氏家宿助郷役の人夫が白河口までの軍夫として引き上げられたのが延数で九月七日より二九日まで二二名、一〇月一日より七日まで八名の計三〇名である。太田村では芦野宿と白河の間の軍夫が二六〇人で六月一六日より九月三〇日まで、また九月六日より一〇月一二日まで一〇二人が白河詰となっている。さらに会津若松城陥落後、会津若松に四二人ずつ六日間派遣が軍夫御役所に提出されている。特に戦局が終わりに近づくと、軍夫派遣は激しくなった。太田村の史料には「尚又先月(註八月)十日後ヨリ軍夫御役所ヨリ厳重ノ御沙汰ニテ、高百石ニ付三人ノ割ヲ以テ相勤ノ処仰セ付ラレ」(史料集Ⅲ・三頁)とあり、苦しい生活の上にさらに重い軍夫役を強いられた様子を述べている。

図5 白河城(小峰城)跡