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農村の困窮

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 徳川幕府の終末期、慶応二、三年には農民の生活は極度に困窮の度を強め各地に農民一揆の嵐が吹き荒れた。高根沢地域にあっても戊辰戦争の北上に伴い多くの軍夫が徴発され、負担も増加し、働き手を失った農村は、苦境に立たされていった。太田村名主清左衛門と飯室村名主谷右衛門は知県事に対し「女、子供ガ残サレ麦作ニ付、残ハ申スニ及バズ、雨天勝ニ候得バ、イズコノ手順モ行詰リ、村役人弁納ニ行届キ兼」(史料集Ⅲ・三頁)といった状況で秋に納める年貢を九月一五日まで約一か月延期してくれるよう願い書を出している。また太田村、栗ヶ島、寺渡戸の村役人たちは連名で「年貢定免継続」の願を出している。それによると安政五年より一〇年間の約束で、定額の年貢(定免)を納めてきたが、その期限が明治二年に切れるので、新たに年貢額を決めなければならない。しかし、村民の生活が苦しいので、小額の増加で定免制を継続してくれるよう願って、次のように述べている。
 
  近年は凶作続きで、殊に諸物価も高く村民皆が難渋しています。ようやく暮らしを続けている状態なのに、明治元年中は軍夫役が多く、死ぬ程の難儀でございました。この次は年貢を増やす約束でしたが、このような訳ですので太田、栗ヶ島は五合、寺渡戸は二合の増米で後一〇年間の定免を続けて下されば村人も助かり、農業に精を出し永続させることも出来ます(史料集Ⅲ・一二頁)。
 
 戊辰戦争で多くの労働力を徴発されたことの影響の大きさを知ることが出来る。
 また、大谷村では農民が上納米も不足し、家出し、帰宅しても病身で困窮し、路頭に迷い救済方を役所に提出するありさまであった。
 一揆と戦争で治安も乱れ、盗賊が白昼、農商家へ押し入り大金を奪って逃げる状況下で、県は村に取締規則をつくって、当番を決めて自衛策をとらせた。具体的には二〇歳から四〇歳までの強壮な者を一か村ごとに一五人を当番に定め、村役人の指揮をうけることにした。盗賊を追って行き闇夜で顔も分からない場合には「山といえば川」といった合い言葉まで考えている。村役人は賊徒取締りの外、村人の日常生活にもよく気を配り、孝不孝、不義、農作業の勤惰、博奕、小さな盗みに至るまでよく探索して聴訟課という県の役所へ報告し、治安維持にあたるよう定めていた。

図6 村々取締り規則書(亀梨 鈴木重良家蔵)