近年は凶作続きで、殊に諸物価も高く村民皆が難渋しています。ようやく暮らしを続けている状態なのに、明治元年中は軍夫役が多く、死ぬ程の難儀でございました。この次は年貢を増やす約束でしたが、このような訳ですので太田、栗ヶ島は五合、寺渡戸は二合の増米で後一〇年間の定免を続けて下されば村人も助かり、農業に精を出し永続させることも出来ます(史料集Ⅲ・一二頁)。
戊辰戦争で多くの労働力を徴発されたことの影響の大きさを知ることが出来る。
また、大谷村では農民が上納米も不足し、家出し、帰宅しても病身で困窮し、路頭に迷い救済方を役所に提出するありさまであった。
一揆と戦争で治安も乱れ、盗賊が白昼、農商家へ押し入り大金を奪って逃げる状況下で、県は村に取締規則をつくって、当番を決めて自衛策をとらせた。具体的には二〇歳から四〇歳までの強壮な者を一か村ごとに一五人を当番に定め、村役人の指揮をうけることにした。盗賊を追って行き闇夜で顔も分からない場合には「山といえば川」といった合い言葉まで考えている。村役人は賊徒取締りの外、村人の日常生活にもよく気を配り、孝不孝、不義、農作業の勤惰、博奕、小さな盗みに至るまでよく探索して聴訟課という県の役所へ報告し、治安維持にあたるよう定めていた。
図6 村々取締り規則書(亀梨 鈴木重良家蔵)