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小区会議の設立

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 民衆の声を反映させるため板垣退助らは明治七年(一八七四)に民撰議院設立建白書を左院(立法府)に提出し世論を動かした。大久保利通らはこれに対して、翌八年「漸次立憲政体の樹立」の詔書を出して政府が民心をつかもうとし、同年六月には第一回地方官会議を開催した。
 地方官会議に出席した栃木県令鍋島道太郎(貞幹、幹)は出席にあたり質問の内容について各区戸長に諮問している。その内容は①道路、橋梁、堤防のこと、②地方警察のこと③地方民会のこと、④貧民救済方法のことであった。
 議題の一つの「地方民会の事」について、この会議では「地方民会はしばらく区戸長をもって議員とする」ことが定められた。そのため民会は従前の区戸長という地方有力者により運営されることになった。これに対して那須郡黒羽八塩村の三田称平は「民会設立建言書」の中で民会を設け、衆議公論を定めることと、民衆の意見の重要性をのべ、特に区戸長を議員にあてることに不満をいだいて次のように述べている。
 
 議員ニ充ツルニ当分区戸長ヲ以テス、臣窃ニ惟フニ区戸長皆才徳アルニアラズ、精選セズンバ多トイエドモ何ノ益アランヤ、又士民中ニモ才徳アル者ナシト謂ヘカラズ
 
 当時、各区で小区会議設立の動きがおきていた。そこには積極的に新体制への政治参加を図ろうとする民衆の意思が現れていた。第三大区(塩谷、那須郡)でも第一小区から一〇小区の代表名で「小区会議設立伺書」を提出している。そこでは民会の重要性を次のようにのべている。
 
  会議タルモノ至難至重ノ事ニシテ彼英国下院ノ如キモ、其始ニ方テハ世ノ蔑如ヲ免レス況ヤ僻陬ノ那須、塩谷両郡ニ於テオヤ、之ヲ設クルモ無用ノ長物タルニ似タリ、然リト雖トモ退テ復熟考スルニ凡天下ノ事物之ニ先ツモノアラザレバ、之ニ次クモノナキノ理ヲ推ストキハ既ニ本ナル種子ヲマイテ萌芽セサルノ理アルヘカラズ(『栃木県史』史料編近現代一・二〇五頁)
 
 会議を開くことについて、イギリス下院ですら最初はないがしろにされていたことを考え那須、塩谷という僻遠の地では当然であろうとし、しかし種はまかねば芽は出ないという諺のように会議を開くことにより新しい社会の芽が育っていくことを訴えている。