大・小区制、栃木県の成立で村々が制度上安定の方向に向っていくなか農民の生活にはいろいろな問題がおきていた。上高根沢村では用掛が農民に詳しい相談もなく年貢を決め、明治六、七年分を納めたが川俣角三郎が精算したところ二年で六〇〇円も収めすぎていた。これでは村が滅んでしまうと川俣角三郎、斉藤儀三郎、磯秀五郎外有志は会議を重ねて、減額を戸長に懇願したが妨害にあい失敗した。しかし、惣代は万難を排し県令に懇願した。県令は直ちに大蔵省に伺い、山口知性ら四名が検査のため村に来た。それで翌年は年貢五〇石が差しひかれ、村民一同、愁眉を開いた。
上高根沢村で事態が解決したころ、前高谷村外九か村は戸長役場移転という問題がおこっていた。前高谷を御用扱所としていた九か村(平田、太田、反畑、中柏崎、桑久保、上高根沢、柳林、赤堀、西高谷)は、凶作が続き、物価は高く、特に地租改正で多くの村費がかさみ悲嘆にくれるといった状況であった。村費を割り当てられても払えない者が多く、用掛や主だった農民は立替えを余儀なくされていた。
戸長桧山六三郎は明治八年三月に前高谷村の御用扱所を引き払い氏家に移転させるよう命じた。これまでの取扱所は九か村のほぼ中央に位置し便利だった。氏家宿になると三、四里ときには二日も日数がかかる不便さの中で用掛は対応に苦慮した。早速県庁に歎願し、採用されて、三月二三日に呼び出され、改めて尋問があり、翌二四日には戸長桧山六三郎の呼び出しにあい願書は却下された。
用掛たちは裁判所や警察掛を訪ね、各方面に事情を訴えたが、結果は「農民の勝手次第」と言い渡され不採用となった。責任を感じた用掛たちは御用取扱所はどこに設置されても「一切異議は申しませんが私共一同を免職して下さるようお願いします」と用掛職の免職を要求した。もし免職を認めない場合は「願を採用なさらない理由を指示して下さい。その理由をもって帰村し、事の顚末を説明するので是非お願い致します」と県令に願い出ている。
用掛たちが農民のために連帯して行動している姿をみる反面、知事、警察、戸長という縦の集権的な支配体制がすでに確立されているようすもうかがい知ることができる。