明治新政府は、慶応四年(一八六八)三月、「五ヵ条の誓文」でその基本方針を明らかにした。そこには、アジアに進出しつつある欧米の力に対抗するため、積極的に欧米近代文化を導入することや国民一般の啓発を図ろうとすることへの意気込みが示されている。これに基づき、教育の方針として具体的に施策が考えられた。
明治三年(一八七〇)二月、新しい時代の指導者の養成及び欧米の学問を取り入れるため「大学規則」が、また大学に進む予備機関として「小学規則」が定められた。しかしこれらは、国民一般の初等教育機関とは異なる性質のものであり、結局公布されるには至らなかった。
これより先、明治政府は国民一般の教育を急務と認め、明治二年二月、地方行政の基本事項を定めた「府県施政順序」の一項で、「小学校ヲ設ル事」を記している。これによると、日常生活に必要な読・書・算とともに、先生と生徒との対話である「談話」によって国民としての教育及び道徳教育を行うものとし、なお続けて才能の優れた者は、その志を遂げさせるべきことを述べている。
ただ、明治四年の廃藩置県以前の新政府の教育政策の対象は、わずかな府県に限られ、全国の大部分を占めていた諸藩の教育は、各藩にゆだねられていた。
この後、明治四年七月、文部省が新設され、全国に施行する統一的な教育制度が整備されるようになった。そして政府は同年八月二日、学制の基礎理念を明らかにした太政官布告(「被仰出書」)を公布するとともに、「学制」を実施することを宣言した。翌日文部省は布達を発し、これを全国に広め、近代的な学校制度を具体的な形に表そうとしたのである。