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学制

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 「被仰出書」は、その冒頭において学校を設立する趣旨を明らかにし、「学問は身を立つるの財本ともいうべきもの」と述べ、各人が立身出世し、産業を起こし、それを盛んにするための学問を、学校において受けるべきことを説いている。さらに、「自今以後一般の人民」は、「必ず邑(村)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」とし、「父兄たるもの」は、「幼童の子弟は男女の別なく小学に従事(入学)」させるべきであるとしている。このように「被仰出書」は、欧米の近代思想にもとづく個人主義の学問観をとっており、また実学主義の立場に立っている。それは、全国民を対象とする学校であることを強調し、地方の役人及び住民父兄にその趣旨の徹底をはかった。
 学制における学区は、全国を八大学区に分け、一大学区を三二中学区、一中学区を更に二一〇小学区に分け、各小学区に小学校一校を置くというものであった。本県は第一大学区に属し、第三八~四二番までの五つの中学区に分けられた。本町域は当時宇都宮県に属し、第四〇番中学区(塩谷郡・那須郡)である。これらは、人口六〇〇人に対して小学校一校を、人口一三万人に対して中学校一校を置くことを目標とする構想であった。また尋常小学を上下二等に分け、下等小学は六歳より九歳、上等小学は一〇歳より一三歳までの修業年限八年制とした。
 下等小学の教科は次の一四教科である。
 
 綴字・習字・単語・会話・読本・修身・書牘(解意並盤上習字)・文法・算術・養生法・地学大意・理学大意・体術・唄歌。
 
 上等小学の教科は、下等小学教科に、次の四つを加えたものである。
 
 史学大意・幾何学罫画大意・博物学大意・化学大意。
 
 文部省は学制に引き続き、明治五年(一八七二)九月、「小学教則」を制定した。これによると、上下二つの小学をそれぞれ八級に分け、下等八級より下等一級、上等八級より上等一級までの毎級の授業期間を六カ月とし、日曜日を除き毎週一日五時間・一週三〇時間の課程としたものである。
 しかしながら、学制当初において、このような学区・教育内容を直ちに実施することはすこぶる困難であった。そのため宇都宮県は、明治六年一月二四日、学区の区分及び小学設立のめあてを、第一大学区の教育行政を監督する「督学局」に次のように伺いをたてた。
 
   当県下の人口は二三万四一二四人ですが、次のように通学区を定め、学校を設立してよろしいですか。(中略)一 管下四郡のうち、那須郡・塩谷郡は人口一〇万三〇一八人であり、それを一六六小学区に分け、各々小学校を一校設立すべきところ、まず七〇校を設立し、追って増加させるつもりです。
   ただし、右の両郡を中学区としてもよろしいですか。(中略)
    明治六年一月二四日 宇都宮県 七等出仕
               小野修一郎
              宇都宮県 参事
               小幡高政
    督学局 御中
 
 これに対し、一月三〇日付けで、
 
   (前略)宇都宮県はまず二中学区四二〇小学区に区分しなさい。あとは伺いの通りで結構です。
 
と、学区については学制序文のとおりにせよとの指令を受けた。そこで宇都宮県は、授業料や小学校諸費など学校にかかわる実際の出納を計算し、また校舎を考慮し、翌二月、参事小幡高政と七等出仕小野修一郎が転任し、栃木県令鍋島 幹の宇都宮県令兼務を好機としたのか、再度小学校設立方法を督学局に伺い、了解を得ることができた。
 なお、小学区の区域は、明治六年六月一五日、旧栃木県が宇都宮県を併合し、栃木県が成立したことに伴い、明治七年二月改定された。そして本町域(塩谷郡)は、第三九番中学区に入ることになった。この区域も、明治九年八月(一八七六)、上野三郡(邑楽郡・新田郡・山田郡)が群馬県に編入された後の明治一〇年に再改定され、第四〇番中学区に入ることになった。

図9 町域の早い時期の「卒業之證」(伏久 塚原征文家蔵)