これに先立つ明治六年三月、宇都宮県では次のとおり旧来の私塾などを閉鎖する命令を出した。
御布告の趣旨に基づき、今後免許を持たない家塾や私塾などは一時閉鎖しなさい
ただし、許可を得たい者は、教則・塾則および教官の履歴などを添え願い出なさい
宇都宮県令 鍋島 幹 (亀梨 鈴木重良家文書)
画期的な学制の実施に当たり、寺子屋や私塾の存在は、その妨げになると考えられたからであろう。この法令により、明治六年五月、花岡地蔵寺にあった「寺子屋」の関俣館は、「公立小学校」の関俣館となり廃止となった(『栃木県教育史』第二巻)。
また、私塾などの教師で、小学校の教師を希望する者は、明治六年四月、栃木町に開設された類似師範学校に入学し、正式な授業方法である「正則教授」の法を学ばなくてはならないこととした。
類似師範学校は、県下の小学校教員の短期養成及び教員の現職教育を行うものであった。修学期間は、「現在正則卒業免許の者は甚だ稀なため、教員の推挙に困っている」ため、「現実修業の日数」は、はじめ六〇日以上であったが、のち六か月、更には一年に延長された(『栃木県史』通史編近現代一・二八〇頁)。