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学制の教員養成

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 「学制」は、「教員ノ事」として、「小学校の教員は、男女にかかわりなく年齢二〇歳以上で、師範学校の卒業免状あるいは中学校の免状を得ていなければ、その任にあたることはできない」(第四〇章)と規定した。しかし国民教育制度の草創期にあっては、この規定はそのまま実施することができず、「数年の後にこれを行うこと」とされた。なぜなら、我が国最初の教員を養成するための学校である師範学校が東京に開校されたのは、学制発布と同じ明治五年九月であったからである。そして明治六年七月、第一回の卒業生を送り出したが、その数はわずかに一〇名であった。このように、正規の師範教育を受けた教員の数は極めて少なかったから、資格にとらわれているわけにはいかなかった。
 そこで、明治五年一一月二四日、宇都宮県は次のようなお触れを出し、小学校の教員を募集した。
 
   このたび、各小区へ小学校を設立するため、係の役人を出張させるので、これまで漢字・筆学・洋和算術など師範の者、並びに新規に教員になりたい者は、士族・神職・僧侶・農工商などにかかわりなく、別紙雛型の通り書き上げ、巡回先へ差し出しなさい。
   右の通りお触れを出します(雛型略)。
 
 このように、私塾・寺子屋の教師はもちろん、士族・神官・僧侶等で多少和漢学の素養ある者を教員に任命しようとした。
 翌明治六年二月五日、宇都宮県は、
 
  先ごろ、松井惟利(東京府の士族で洋算術に通じている者)を雇って洋算教師とした。そしてこの日、命令を出して生徒を募集する。その方法は伝習で小学校の教員に充てようとする。
 
との令を出し、伝習(講習)会を開いて教員を養成しようともしている。
 なお旧栃木県では、明治六年五月三一日、栃木町に類似師範学校(のち栃木師範学校)を開設した。そして、東京師範学校の卒業生を招き、「大いに小学授業方法を伝習」(『栃木県史』史料編近現代八・二八頁)した。