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赤羽宥松の教員辞職

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 このような中で、上高根沢の赤羽宥松は、明治六年四月、宇都宮県から小学校の少訓導(教員)に命じられた。勤務中、年三〇円支給するとのことであった(史料編Ⅲ・一〇一一頁)。ところが彼は、同年一二月三日に、上高根沢舎のその職を辞している。この理由は、「思うに、旧県(宇都宮県)の訓導として、未だに正則授業方法の伝習を受けていない。免職を願う者は、おおむね庁下類似師範学校に入学し、その伝習を受けたいと思っているようだ」(『栃木県史』同前・同頁)とのことと思われる。
 困った村は、早速代わりの教員を見つけ、訓導にしたいと学区取締を通じて県に願い出た。しかし県からの返事は、代わりの教員が正規の授業法を学んでいなかったためか、「当分助教(補助教員)に雇い入れる」というものであった(史料編Ⅲ・一〇一二頁)。
 なお、「学区取締」は、各中学区に置かれ、就学の督励、学校の設立と維持・管理、学事経費の集金・使用などを的確に行い、担当区内の学事を促進させる任務を担う者である。
 やや時代は下がるが、明治一三年一一月、太田学校は、松岡真という人物を教員として委嘱したいとの願書を県令あてに提出し、認められた。その履歴を見ると、「明治一三年、本県師範学校において、試験の上証明書を授与された]とあり、これがその一番の理由と思われる(史料編Ⅲ・一〇三三頁)。

図13 少訓導任命の辞令(上高根沢 赤羽祐二郎家蔵)


図14 赤羽の辞職承認状(上高根沢 赤羽祐二郎家蔵)