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学費の徴収

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 学制では、第八九章以下「学費」について定めている。それによると、「諸学校において必要な費用」(九三章)として、教師の歳俸(給与)・その居宅の家賃・学区取締の給料・学校造営および修理の入費・学校諸器械・教授器械ほかをあげ、「全ての費用は生徒がこれを負担すべき」として、基本的に授業料を中心とする、受益者負担主義を取っている。しかしなお、第九八章においては、学校設置者である学区の負担金についても規定しており、その財源として、「一時富人から出金してもらうか……旧来の積金などを学校に費やして……融通する……」としている。
 授業料については、第九四章において、中学校が一か月五円五〇銭(外に三円五〇銭・二円の二等を設ける)、小学校では一か月五〇銭(二五銭の一等を設ける)とした。そして九五章において、一家で二人の子弟を入学させる場合は、下等の授業料を納めればよいこと、三人以上の場合は、二人分の授業料でよいと規定した。この授業料は、当時の物価に比較して大変高額であり、規定どおりに徴収することは困難であると思われた。
 宇都宮県では明治五年一一月、学費徴収の件で次のように文部省に伺っている。
 
 一 学制第九四章に掲載の授業料の件ですが、当県下人民の現在の状況では、何とも取り立てにくく、貧富の区別を定め毎戸に賦課し、当分授業料は取り立てないつもりです(『栃木県史』史料編近現代八・三五頁)。
 
 翌年二月、設立予定の小学校一校一か月当たりの「出納目途」を計算し、「授業料」ほかが決定された。これによると、二等(家産多い農、及び雇夫を使役し家屋敷を所持する商工人)以上の人民は、一か月金二銭(ただし、一家二人以上を出す者は一人金一銭半)、三等(田畑一〇石所持の農、及び私有の家屋を持つ商工人)以下の人民は一か月金一銭半(ただし、二人以上は一人金一銭)であった。学制の規定に比べて、相当減額されている。
 次いで二月一四日、小学校の設立方法を督学局に伺ったが、その指令によると、
 
   生徒の授業料は、地域の状態により、当分の間学制に記載する下等授業料より安く定めてもかまわないが、すべて許可するというわけではない。
 
というものであった。
 徴兵令が施行され、地租改正も進行しつつある当時、さまざまな民費負担に苦しむ人々を見れば、当然の措置であったと思われる。
 なお、当時「束脩」と呼ばれていた入学金は、明治九年四月の入学生から徴収しないことになった(明治九年一月二〇日『栃木県布達乙第一七号』)。