教師は、宇津廣之進(南岱)とその子謹六郎であったが、明治二五年(一八九二)に南岱が、明治四三年(一九一〇)には謹六郎が他界したこともあり、廃校のやむなきに至った。
下野新聞の記事には、明治四三年廃校とあるが(史料編Ⅲ・一一一九頁)、明治四〇年六月一五日に発行された『明治三八年度栃木県学事年報 付録一』には、
塩谷郡――前年度に比較して、私立尋常高等小学校が一校減少した。
とあり、正式の閉校はこの時と思われる。
なお、大正一一年(一九二二)、阿久津与市ほか数十人の世話人が、宇津学校の記念碑建立の協議を行ない、同窓生数百人を訪れ、その同意を得て、同年三月一二日、記念碑除幕式が盛大に実施された(史料編Ⅲ・一一一九頁)。