幕府の支配を受け継いだ維新政府は、欧米諸国によるアジアの植民地化が進むなかで、日本の独立を保っていくため、権力を集中し、財政を確立して、軍備の強化と近代産業の育成に努めなければならなかった。
明治四年(一八七一)の廃藩置県はそのための出発点であり、財政面では近代的な国家財政をつくりだす第一歩であった。
維新政府が発足したころの財政は、旧幕府領と奥羽諸藩の領地からの租税が主だったので、それだけで支出をまかなうことは難しく、不足分は太政官札の発行と京・大阪の豪商に課す御用金で補わなければならなかった。また幕藩制下の租税は田畑にかける年貢が中心だったが、種類が多く複雑で、藩によって負担も違い不公平だったので、租税制度を全国的に統一し、負担の公平をはかることは、政府の急務となっていた。
政府は明治三年に畑年貢を金納とし、翌四年には田の年貢もその地域の米相場(実際には県の指示した価格)での金納を認めた。また同年九月には「田畑勝手作り」を許可し、一般農民にも米の販売を許可した。五年に入ると農民の身分(草分け、水呑、前地、家抱など)を禁止、二月には「田畑永代売買の禁」をといて、土地の私有を認めるとともに、売買・譲渡のあった土地に地券を交付することにした。
地券には土地所有者、売買価格を基準とした地価が記されて、これまで無税だった東京・大阪等の都市の土地には地価の二パーセント(のち一パーセント)の地租が課されるようになった。市街地以外の郡村では、地券は土地所有権を証明する役割を果たし、租税は新税法ができるまでは旧税法によることとなっていた。
明治五年七月になると政府は全国の土地に地券を発行し、一つの土地には一人の所有者(一地一主)という原則によって土地所有者をきめ、地価総額を計算することになった。この時発行された地券は明治五年の干支にちなんで「壬申地券」とよばれた。壬申地券交付の作業が実施されていくなかで、土地所有権や地価算定をめぐって多くの問題がおきてきた。そこで政府はこれらの問題を解決し、公平な地租負担と財政の確立をめざして、明治六年(一八七三)地租改正法を公布した。
この壬申地券から地租改正への転換をへて、政府は財政基盤を確立し富国強兵策の実現に突き進むことができるようになり、国民は土地所有権を得て、その後の資本主義経済の担い手となるとともに、変動する社会の荒波に立ち向かうことになったのである。