地券調経費は地主である農民たちに割り当てたが、その方法は村によって多少の違いがあった。亀梨村では村共有の公有地の分を村内二二戸で平等に負担し、残りは反別割、筆数割、地代金割、戸数割の四つに分けて割り当てている。亀梨村最大の地主・七郎平(村の耕宅地・平林一一七町九反三畝余歩の内、六二町余歩・五三パーセントを所有)の経費負担分は一八三貫四八八文(三三・四パーセント)であった。土地所有の割合より経費負担の割合が低いのは一筆の面積が広い耕地が多く、筆数割の負担が少なかったのと、地代金の低い平林が多かったからである。上高根沢村の場合は反別、地代金、筆数の三つに分けて割り当てており、太田村は反別と筆数の二つに分けて割り当てていて、戸数割がないので、両村の負担のしかたは土地所有規模に応じた負担ということがはっきりしている。
また、地券は書かれている地価にしたがって一〇〇円以下は一、〇〇〇分の五、すなわち一〇円につき五銭、一〇〇円以上二〇〇円までは五〇銭等と地券証印税を納めることになっていた。例えば亀梨村の証印税は八二〇筆で四一円六二銭九厘であった。そして県の地券関係経費のうち、地券調べで増やした役人の給料、地券関係庁費などはこの証印税でまかなうことになっていた。
地券調で多くの費用を負担していた村々の窮状を察した大蔵省は、六年四月四日「このたび限り、証印税で所定の経費を支払った残金を、村方へ下げ戻す事」を決定した。
このような経費負担の重さについて、明治七年一一月に県は村々に次のような通知をだしている(『南河内町史』史料編4近現代・三六頁)
明治五年地券調が始まってから、同年は一倍半にも達する増税で、六年にも増税しようとしたが、政府の方針もあって一か年に限り据え置いた。本年も増税すべきところ春から水害や雹害で不作の上に、地券調の入費も相当かさんだようなので、政府へ申し入れ、今年も五年と同じように据え置くことにした。明治八年には適切な税額に引き上げるから、今年のゆるやかな税に慣れて、以後苦情など申し立てる者がないように注意せよ。
地券調経費は農民の肩に重くのしかかり、県が政府に増税を控えさせるほどだったのだ。町域でも戸長役場が前高谷村の御用取扱所を、氏家宿へ移転させようとした時、前高谷村外九か村の用掛は連名で移転反対願を県令に出したが、そのなかで次のように述べている。
私ども村々はいずれも困窮の村で、近年不作が続き難渋のおり、物価高で小民たちは生活が苦しくなっている処、地券御発行以来、多くの村費がかかり、村々の小前百姓に割当て、取り立てを通知しても、嘆き悲しんでいるばかりで、取り立てもできず私どもや小前の主だった者が立替えている場合も多いのです。
(中略)御用取扱所が氏家へ移っては、村からは近くて一里半、遠くは三、四里となる上、御用・村用が遅れれば戸長から罰金取り立てなどの難渋がいつかかるかわかりません。(中略)私どもの村々は難渋のため願をだしているのに、県は戸長の言い分ばかりきいて、不服ならば裁判所へ訴えるも、警察へ出願するも勝手にして宜しいといわれては、帰村して村人に何も申し聞かせる事ができない。私どもに免職を命じて下さい。免職して下さらないなら、どういう理由で私どもの願を聞いてくれないのか指令して下さい。それを持って帰り、村人に話し、その結果をまたお届けします(史料編Ⅲ・二一頁)。
と、かなり強硬に要求を通そうとしている。この結果については不明だが、地券経費の取り立てが難航していること、村民の間に簡単には「官」の言い分を受けいれない気分が漂よっていたことが推察できる。
表20 壬申地券経費関俣村
年月日 | 費目 | 金額 |
5年2/11 ~6年1/18 | 筆・墨・紙代 地券調べ日当 | 金6両と銭528文 239人分(1日米4合、銭400文・4人) 米 9斗5升6合 村方取り立 銭 95貫600文 戻し金の内引 |
6年4/2 ~10/5 | 地券調べ日当 | 297人分(1日銭700文・3人) 銭 207貫900文 |
6年10/7 ~7年2/28 | 〃 | 254人分 金16両3分と 銭10貫300文(4人) |
6年~7年2月 | 地券調諸費 担当人給料 地所改費 旅費 帳面仕立代 美濃紙代 飲食・雑費 |   金55両1分 銭800文 金19両2分 金35両3分1朱と 銭260文(出県・氏家出張) 金 9両 金 4両3分2朱と 銭1貫600文 金 6両2分2朱と 銭141文 |
計 | 金131両1朱と 銭8貫801文 | |
総計 | 金153両3分1朱と銭323貫129文 |
「明治6年酉10月 地券取調日数控帳下書 関俣村」花岡 岡本 右家文書より作成