第二の問題は、これまで秣、生草、薪などを採取して村人の生産や生活と深く結びついていた入会地の扱いだった。この地券調査で「野方秣場」とか「林山」などと呼ばれていた入会地や村持林野は、一地一主という原則では所有者をきめにくかったが、政府は明治五年九月、これらを「公有地」として地券を与えた。さらに翌年、検地のとき村請けとなった林野や入会地の確実な証拠のある所は村請公有地として、村に地券を与えた。例えば関俣村では芝地・秣場一〇か所、計一八町三反九畝二一歩が公有地地券を得ている(史料編Ⅲ・六九頁)。
また、平田村と飯室村は両村の入会秣場のうち字高谷田七反六畝を平田村の持地、字岡沢九反三畝一二歩を飯室村の持地に分けて公有地地券を受けた。明治八年三月、飯室村はこの公有地を小学校助成のため開墾することにし、平田村と相談して悪水抜きの掘割をつくった。そして、今後も協力して、この土地を利用する約束をしている(史料編Ⅲ・七六頁)。しかし、後で述べる、明治六年三月からの林野の官民有区分によって、関俣村の公有地は全部が官有地に編入され、平田村のその外の入会地や上・下柏崎村、伏久村、上高根沢村など多くの村々の広い入会林野も官有地とされてしまい、その利用には多くの苦労をしなければならなかった。